「天命」ということを意識することがあるとかつて拙ブログで書いたことがある。そこで言うところの「天」とは、世界の意味の担保 者ということで用いているのではない。少なくとも自分ではそう思っているのだが。ちょっと誤解があったかなと思いつつ、今日は人間ドックで行った幕張で ぼーっとしながら考えていた。(いつも超ウルトラ・ぼーっとしているけど)
今、ここにこうして生きていられるのを天のおかげとか、天命のしからしむるところとは、愚生は考えない。オレはどうしたらよいの だと、天に聞いてそのまま行動に移していたら、自分の行動の責任は、全部天に帰属することになるからだ。それは、いかなあふぉ~な愚生でもやりたくない。 また、天はお願いの対象でもない。強いて言えば、客観的な視点というか、愚生をじっと見ている眼というような感覚で用いている。
カミュという作家は、以下のようなことを言っている。
「私は、理性も、システムも十分には信じていません。考えているのは『どうふるまうべきか』です」と。