初期化したオノレを標準にして
今は2:48である。そうなのだ。昨日も早く寝て、こんな時間から原稿書きをしている。完全に朝型にしないと、なにも出来なくなるからだ。理由は簡単である。孫がいるからである。オレの家は狭いから、逃げ場がない。ないというよりは、孫と遊んでいたほうが楽しいからだ。ま、いいか(^_^)。
明日も東京に行く。在籍大学の紀尾井町キャンパスに行く。手紙が来たので、行かなくてはならない。論文の発表会を拝聴してくる。これ以上は書けない。
だから、孫と今日も遊ぶのだ。これはオレの生きがいであるからだ。こうやって、いろいろなものが継承されていくのだと思うと、実に感慨深い。しかし、昨日の記事でも書いたが、すべては消え去っていく。孫もオレのことなんか、忘れていくだろう。オレは、オレの祖父とか祖母のことは覚えているけれども。
特に、祖母の作ってくれたおにぎりのうまさは忘れられない。でかいおにぎりで、味噌がくっついていたっけ。あんなの50年以上食べていないなぁ~。また喰いたいが、味噌がついているというと、家人に顔をしかめられる。塩分が多いとか、血糖値に良くないとか云われるっていう寸法だから。それも致し方なし。健康が大事というのは、否定できない重要事項であるから。
さて、話は変わるが(いつも変わってばかりだけど)人事の季節である。現役の方々は大変な時期である。ご苦労様である。それはそれなりに。これもまたこれ以上は言及できないから書かない。されど、人事なんて現役時代のことだけで、退職したらまったく無関係になるのだ。これを忘れてはいかん。退職しても、興味深くいろいろしゃべっている輩をいくらでも知っているけど、暇人だなぁと感じている。もういい加減に止したらと云ったこともある。いつまでもみっともないと本当に思っているからだ。毎年、教員人事のことが新聞に出るけれども、(先生がたの春の異動とかいうタイトルで)オレはもうまったく見ない。関係ないからだ。
退職したということは、オノレというものを初期化したのである。データは完全に消え去ったのだ。後は、その初期化したオノレを標準にして生きていくことである。
相手にされないなら、それを標準化していくのである。いいじゃないか。相手にされなくても。(特に美人に・・トホホ)相手にされないのが嫌だったら、オレなんか生きていけないでっせ、マジに。(^_^)
退職して大学院生になったのも、塾の講師でアルバイトしているのも、ずいぶんなことを云われてきた。要するに「元****」ではないか?というかなり軽蔑の念が入っている言い方であった。もう聞かないけれども、云われたことは確かである。大学院の方は、修士課程だと思っている人が殆どである。今年で卒業だな?と聞くから、あ、この人は大学院というものそのものを知らないのだなと一発でわかる。超一流大学を出ている方にそういうのが多いから、つまりは知ったかぶりをしているだけだということがすぐわかる。教育制度自体をご存じないのである。馬脚を現すとはこのことだ。オレを評価しているつもりが、オノレが評価されているっていう寸法である。
塾もそう。全国規模の塾であるから、なかなかのものなのだ。それを生活に困っているからやっているんだろ?ってな言い方はないぜよなぁ(^_^)。
そんなに働いてどうするんだとも聞かれる。
何度、たったこれだけの時間しか働いていないのだけれども・・と申し上げても頭に入らないようである。
思い込みが激しすぎるのだ。「吾以外すべて師なり」という格言があるが、あれの真逆な発想であるからだ。つまり、「吾以外みなバカなり」という思い込みである。それはアカンでっせ。そんなことを普段から思っていると、どっかで馬脚を現すからだ。
オノレの能力なんぞ、てーしたことはねぇからだ。
そう思って、それを標準化していると人生はまことに楽しい。だって、てーしたことねぇオノレがすること、やることが、なんでも「あ、こんなこともオレはできるのだな」「へぇ、オレの書いた駄文がこんな雑誌にも出るんだなぁ」って感激の毎日を過ごすことができるからだ。
いいもんである、実に。
オレは、こうやってひねくれじじいとして、これからも生きていくんだろうなぁ。
わははっははっはっははっはっっはは。