家庭生活は明るくなければならない
孫に教えられることは多々ある。
一番は、家庭生活が明るくなるということである。孫が、リビングのテーブルで幼児用のイスにちょこんと座って、スプーンとフォークを持って、微笑んでいる姿ほどいいものはない。家庭生活が明るくなる。最高の微笑である。だから、家庭生活の持つ効用ということをもっと考えなくちゃならんと、常々独身者には申しあげているのだが、なかなかうまくいかない。
しかも、このことは案外無視されることが多い。
思うに世の中の多くの事件とか、苦悩とかはこれが原因であるとすら思っている。経験上。鬱もそうだ。家庭が明るくないとアカンのである。あるいは、仕事中毒でしかも出世コースから外れたときに陥る危機。人生の目標に達しなかったときの悩み。絶望。挫折。
ともかく危機的状況に陥ったときに一度考えてみたほうがいい。家庭生活の明るさについて、である。
やはり一日の仕事を終えて、家の玄関をくぐった時、家の中で微笑みを返してくれるファミリーの存在は大切にしたいものである。楽しい晩餐に向かうとき、その日一日あった苦労は吹き飛ぶ。窮屈な表情も吹き飛ぶ。くつろぎと、自由さと、愛のある言葉と、栄養満点の食事等々が一日苦労してきた我々の癒やしとなるのである。
なにも金持ちでなくてもいいのだ。オレのようにカネは無くても、微笑だけは売るほどあるという家庭生活で十分である。生活が苦しいからと云って、家庭を持つことを忌避してはならない。なんとかなるものである。貧しくても、そこから這い上がることができれば、どんな銀行から貰う利子もかなわぬほどのお宝が隠されているのだ。
やってならないことは、家庭生活の中で始終小言が絶えず、争いが絶えず、果ては暴力沙汰に及ぶというのでは、家庭そのものが牢獄となってしまう。それでは後悔するのは当然である。
だから、料理の小言を云わない生活を送ることである。いただきますという感謝のこころで、食事をいただくことである。
家庭において、ルーズな気持ちになってもいいというのではアカンのである。自制心を失ってしまってはならんのである。自制心はもっとも基礎的な価値観である。偽物の自分であってはならないのである。不快な顔をして一日中仕事場で不機嫌に過ごしておってもならんのである。
「緩み」からきているのである。そういうのは。
家庭では、オレが主人公だから激しく叱責したり、怒ってもいいというのではないはずである。なかなか難しいのだけれども。オレだってできないから、こういうことをモットーとして努力しているのだ。
和顔愛語とはよくぞ云ったり。
できないから、できるようになれという先人達の教えなんだろうなぁ。
今日は、二番目の孫ができた。
午前中である。
五体満足であるそうだ。
安心した。
しかし、まだその孫を見ていない。
22:22である。
一番目の孫を抱っこして、さっきまであやしていた。子守歌を歌いながら~♬
そんなつまらない日常の中にオレは価値を見つけようとしているのだけれども。
(^_-)-☆