趣味でやってんでしょ~!
放送大学で勉強されている方々のブログを見るのが好きで、今朝もちょっと拝見させていただいていた。子育て真っ最中のおかーさんのブログであった。学部に編入された方のである。ということは、別の大学を出て放送大学で学ばれているのだろう。
感心した。
そういうことに、仕事をしながら取り組んでおられるということにである。なかなかできないことである。何故か?。そう、オレもやってきたからだ。仕事をしながら、放送大学で学ばせていただいた。現役の教員時代からである。大学院の選科生としてである。これがオレの生涯学習のきっかけとなっていったのだ。もっとも、30代のころに、西本願寺の中央仏教学院でも通教で学んだけど、こっちはまだ生涯学習という意識はなかった。趣味の佛教學をやりたいからであったのだが。どうやら、もういちど中央仏教学院には舞い戻る可能性も高い。まだ決めていないのだが。
どーも、現役の教員時代は、まったく「教育」にがむしゃらに取り組んでいたので、研究とか学問ということから距離があったなぁと慚愧の思いである。それこそ、オレは教育というものに熱中していたのだよん。マジに。
生徒は生きているし、いろいろな問題を抱えているからである。そうした生徒たちのために生きるということがオレのミッションであると思っていたし、そのとおりであった。だから後悔はない。それはそれなりに充実していたからである。尊い仕事をさせていただいたものである。満足している。ただし、悪い教師であったなぁと思う。方法論的に確立していなかったし、熱意だけあって、未熟な教師だった。人格的にも、知的にもまったく話にならない。だから、かつて教えさせていただいた生徒たちから「せんせ」と呼ばれると、恥ずかしくなる。オレのような愚昧な人間は、せんせ面をしてはアカンのである。
塾は別だ。これは成績向上に直結していて、早い話が進学一辺倒だから、違う世界である。経済用語の支配する世界である。カネをいただいているのだから、成績向上をしなくちゃならん世界である。正直に言えば、それだけの世界である。だから、オレは可能な限り「ふれあい」をしながら、指導する。
ある程度の進学高校を出ていれば、塾の講師はできる。塾の経営者もそう思っているのだろう。出身高校にこだわっているという姿勢がよくわかるからだ。
でも、生涯学習をやっているとそんなことはどうでもよくなってくる。
大学のブランドとか、そういうものに関心が無くなった。
よく大学院に入学するのに、「学歴ロンダリング」という手法をとるかたがいて、旧制帝大大学院をねらって入学される方がいる。旧制帝大大学院で学ばれているひとと名刺交換をすることがよくある。学会の懇親会である。そういう時に、オレは必ずお聞きする。学部はどちらですか?と。けっこういるのである。ま、それもどうでもいいような話ではあるが。
オレは、住んでいる家から近くないと通学できない。交通費ももったいない。それに、今更一人暮らしをしてまで、通学したくない。年齢が高いからだ。
師匠の存在が大きい。師匠がおられないなら、大学院での学びはなかった。古女房は、今でもそのあたりのことがわかっていないから、嫌みを言う。「趣味でやってんでしょ!」と。
そりゃそうだ。60過ぎて就職のために勉強しているってなんて、ありえな~いである。
わはははっはははっははは
孫が起きてきそうだ。
それではご機嫌よう。
(^_-)-
ゼミの後、金曜日に10冊ほど
在籍している大学図書館から、金曜日に10冊ほど借りて、エッチラオッチラ愛車で家まで運んできた。電車通学ではなかなかできなかったことである。... goo.gl/h9zvnF
今日でもまだ、この自由市場経済の形式、アメリカの理念によるものですね、これが最終的には人類を幸福へ導くはずだと、かたく信じて疑わない。だから、私は経済に関心をもっているのです。 『ものがたりの余白』
<死>はそこにいない時こそ輝いている。逝去すること、それは死ぬことではない。この老婦人がお墓の石に変身してしまうことは不快なことではなかった。それはミサの時にパンがキリストの身体へと変化する実体変化のごときもので、存在へと上昇することだ。『言葉』
日本はその生い立ちと地位とに於いて東洋的だ。その活動の目的と能力とに於いては西洋的だ。もしこの東洋的にして同時に西洋的であることが世界的であるといえるならば、地球上唯一の世界的民族は我が日本民族となるのであろう。 (『世界的日本主義』)
【吉野川上流・春】総合 きょう27日午前7:45~「さわやか自然百景」四国の大河、吉野川。上流は険しい四国山地を縫って、大歩危・小歩危などの渓谷が続く。春、吉野川で活発に動き出す生きものたちを見つめる(※一部地域は別)byGTV編成 nhk.jp/sawayaka
近代以前の池袋がどれくらいクソ田舎だったかというと、夕方になると盗賊とか追剥が出没しまくっており、享保6年(1721年)には辻切死体が17も見つかり、供養のために四面塔が建てられたなんてくらいで。その四面塔は池袋駅東口のパルコの裏に現存しております。
そして自分は5月10日(土)に、第93回創立記念降誕会の開会式にて、奉納として仕舞「親鸞」を勤めさせていただきます!!ご仏前での奉納なので、裃で舞う予定でおります。ちなみに裃を着用しての仕舞は初めてですm(_ _)m
5月10日の龍谷大学での仕舞ですが、自身が創立記念降誕会の実行委員をさせて頂いてるご縁で、舞わせて頂くことになりました(`・ω・´)
「親鸞」が世に出るのは実に約50年ぶりで、謡のみ現存していたため新たに型付けをしてもらい、キリの部分を仕舞として舞います!
”アメリカ英語は、堕落した粗野なイギリス英語ではない。2つの英語はどちらも16世紀に英国で標準とされていた英語からそれぞれ異なる道筋で変化していったものである。” sciencebook.blog110.fc2.com/blog-entry-120… 『言語学的にいえば… ことばにまつわる「常識」をくつがえす』児玉一宏
美!!かんのん~♪(*^^*)
(@ 菅生山 大覚院 大寶寺 (第44番札所) Daihoji) 4sq.com/PFQP6m pic.twitter.com/DMkwMBNZyP