在籍大学も教えている大学の方も
今日から教えている方の大学で講義を始めたのだが、これもまた永遠にやらせてくれるわけでもないから、来年は在籍大学も教えている大学の方も放校されてまったくの自由人になる可能性が高いということに気がついた。つまり、教えも学びもできなくなるって寸法である。
こりゃ困ったな。
教える方はともかく、学べるチャンスを失ってしまうのというのは困る。実に困る。中央仏教学院に入学する可能性が一番高いが、まだ検討中である。学費も安いのだし、このあたりで手を打っておしまいとすべきだろうなぁと思っている。
毎日が日曜日というのも悪くない。孫と一緒に遊んでいると、しみじみ良寛和尚のことがうらやましくなった。こういう境涯もまたいいものであろうなぁ。
夕方の五時前には、孫と一緒にお風呂に入っている。なんともまぁ楽しいもんである。このまんま、じいじ生活を続けたいもんである。
怒られそうだが。
さらに配偶者との旅行もしたい。今年は海外にもっと行きたい。去年マレーシアとシンガポールに行ったきりであるから。30歳くらいに中国の桂林に行ったきりで、どこにも行ったことがないから、死ぬまでにいろいろ行ってみたい。
司馬遼太郎みたいに、モンゴルも行ってみたい。それにアイスランドも。オランダもいい。パリも。ロンドンも。漱石のいたところにも行ってみたい。ドイツもだ。鷗外の足跡をたどってみたい。ロシアもだ。学部時代に、ドストエフスキーを扱ったから、やはりここも欠かせない。
だからオレは、健康を損なうことができないのだ。
さらに時間が欲しいのだ。組織に雇われて、時間を奪われたくないのだ。マジにである。せっかく退職させていただいたのだから、楽しみたいのである。それくらいのこと、ええじゃないかと思っている。まじめに、ひたすらまじめに生きてきたのだ。
ミニスカートのおねーちゃんのいる店に深入りすることもなかったのだ。香水のにおいがする店とか、そういうのにはもうすっかり飽きてしまったのだ。一度も行ったことがないとは、クチが裂けても云うつもりはござんせんが。笑っちまうですなぁ。
オレは、実は求道者というのが嫌いである。あたりまえである。この程度の人間が、求道者ヅラをしていたら、それこそ神さまに叱られてしまう。
しかし、その嫌いな求道者に憧れているというのも事実である。欲望に囚われず、清らかな世界で生きてみたいのだ。それは憧憬としてあるのである。できないからである。こんな薄汚れた欲望まみれの、罪作りな人間がいっぱしの聖人君子とか、インテリを気取っていたら地球がひっくりかえる。馬鹿も休み休み云っていないとアカンですな。
生涯学習は、その意味でも価値があるのだと思っている。これをやめちまったら、お昼から酒飲んであっというまに、あの世に行ってしまうってぇもんだよん。
さっき、中国語講座を居住地の社会教育講座で受けていたご老人から電話がきた。
5月から受けるつもりだろうな?という確認の電話であった。この御仁、オレなんかと違って中国語の天才である。オレとはアタマの構造が全く違うのだ。うらやましい限りである。オレは、まだ四声を卒業できない。だから会話なんかまったくできない。
わははっはははっははである。
所詮そんな程度の馬鹿である。
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