やれることはそれくらいしかない
今日から新年度のゼミが始まる。楽しみにしていたゼミである。師匠にお会いできることがである。碩学の片鱗にふれさせていただいて、オノレを叱咤激励することがオレの趣味なのだ。しかし、考えてみれば妙なじいじですなぁ、オレは。
昨日、配偶者にも云ったのだ。「来年はオレまったくの自由人になっちまうなぁ」って。そしたら「みんなやめっちまいなさいよ」だって。大笑いである。どうにもこうにも生涯学習人を気取って、50歳からあちこちと出かけて勉強しているのが気にいらないらしいのだ。メリットがないからである。要するにカネにならないからである。あたりめ~だ。カネは配偶者に出してもらっているからである。こんなクソ爺が勉強したって誰も相手にしてくれるはずがないというのが、基本にあるからだ。
それはオレも認める。
自己満足である。確かにそうである。しかしながら、自己満足であるが故に、自己の救済にはなっているのではないのかと思っているのである。第二の人生ということになると話は別で、さらに高みを目指して努力するということになるだろうが、オレはそういうのではない。
できれば全てを捨ててしまいたいのだ。
わははっははっはっはははである。
出家がその良き例である。
しかしだ、全てを捨ててしまいたいから生涯学習をやっているとなると、当然それは批判される。当たり前である。カネと時間の無駄というのはよくわかる。
それでもオレはやめない。
来年放校されたら、しばらくおとなしくして中央仏教学院あたりでひっそりと息を潜めているつもりである。そしてそれからまた反撃開始である。意味がないのなら、徹底的に意味のない生活で闘うのである。なにに対してか。
それはオノレである。
馬鹿のやれることはそれくらいしかないのだ。
(^_-)-☆
在籍大学も教えている大学の方も
今日から教えている方の大学で講義を始めたのだが、これもまた永遠にやらせてくれるわけでもないから、来年は在籍大学も教えている大学の方も放校... goo.gl/04LGUu
人間は万能の神でも仏でもないのですから、人を完全に理解することもできないし、良かれと思ったことで人を傷つけることもあります。そういう繰り返しの中で、人は何かに許されて生きているのです。
全体性と客観的な経験とのこの「彼方」を、にもかかわらず、純粋に否定的な仕方で記述することは出来ない。この「彼方」は、全体性と歴史の内部、経験の内部にも映し出されているからだ。-全体性と無限-
『ジム・ボタン』の中の悪は、未だ不適切な状態にある悪です。その悪は、無慈悲ではなくて、本来、一つの間違いに過ぎません。あの竜は、もし、しかるべき状態にあれば、叡智の黄金竜になることでしょう。<あらくれ13>の、然るべき役柄は、王の護衛です。 『ファンタジー神話と現代』
私が理解される条件、しかも必然性をもって理解されるという条件――私はそれを詳しすぎるほどよく知っている。読者は、精神的な事柄に対し酷薄なまでに誠実でなければならないのだ。-反キリスト-
慈尊院弥勒仏坐像:高野山真言宗の寺院で、山号は万年山。弥勒堂はユネスコの世界遺産・紀伊山地の霊場と参詣道の一部である。寛平4年の作であることから、在銘作品の少ない平安前期彫刻の基準作として重要である。秘仏であり、開扉は21年に一度。twitpic.com/dxqq4d
マスコミは、このくらいのしつこさと執念で、朝鮮人女性20万人強制連行の有無と性奴隷創作の悪質性について、取り組むべきなのだが! pic.twitter.com/tVxs6fe0J2"