めがねにふか~い傷が
今日はいろいろ事件があった。
孫をだっこして公園から帰ろうとしたら、なんと孫の怒りに触れたらしく、オレのめがねをたたいたのであーる。やんちゃな孫である。かわゆいのに、やることがでかい。油断していたオレもオレだ。
しかしレンズに傷がついてしまったのである。そこで懇意にしているめがね店で修理の予約をしてきた。代金9万円である。参ったな。修理と云ってもレンズの取り替えである。仕方がない。まさか、孫に請求するわけにもいかんしねぇ。
わはははっははっはははっはは。
明日からは孫との散歩には、めがねを取り外して行こう。
これまたドジなじいじの記録でございますよん。
今日はここちよい疲れである。
午前中は、せんせをさせていただいている大学で講義をしてきた。大学生のような若い人と話をしているとこっちは生き返る。ま、オレの孫のようにめがねをたたくようなことは、タブンしないだろうから、安心している。しかし、大学生は熱心である。教員になるための特訓をしているのだが、これはこれでなかなか楽しいのだ。教授学をいろいろとやっているので、現役で教員採用試験に合格させてあげたい、なったらなったで現場で役に立つ知識を伝授させていただいている。けっこう面白い授業だと自画自賛しているのだが。これも今年限りかもしれないと思うと気合いが入るなぁ~。
永久にできるわけもないからねぇ。
夜は塾にいた。
国語と数学である。楽しかったなぁ。オレ、もしかしたら数学の方が好きなんじゃないのかね。ため息つきながら、数学の問題にチャレンジするっていうのは快感でもある。
男子生徒に今日も聞かれた。
「と~ませんせ、先週一回も来てなかったでしょ?」
と聞かれたのである。
「孫ができたのでねぇ」
「え?・・おめでとう」
これもまたいい雰囲気である。
ありがたいねぇ~。
こういうつながりというものが大切であるとオレは思うのだ。
そういう子になって欲しいと思うだけである。
間違っても、自称美人のように、オノレにまとわりついてくる馬鹿男どもの下心一杯の賛辞に酔いしれて、てめぇだけが世の中の主人公だとか勘違いして、感謝の心を失ってはアカンと思っているからである。マジに。
そういうことである。
そういうこと。
じゃぁね~~~~~。
興福寺が関わる能「百万」
7月19日(土)に国立能楽堂で、興福寺が関わる能「百万」がある。楽しみにしている。この道に興味関心を持つようになったきっかけを作ってくれた能である。在学している大学院でも、このことは面接試験で話したことでもある。
昨日興福寺から案内がきた。興福寺友の会に入っていたからである。関西まで出かけなくちゃアカンのかと思っていたが、なんとお江戸でやってくれるというのでは出かけなくちゃならん。さっそく申し込みのはがきを出した。一人でいくのだ。あたりまえである。能はなかなか同好の士がいないからである。ま、どうでもいいか。
あらすじは、以下のとおりである。(引用は、http://junseikai.or.tv/old/sunmytop.htm)
春の嵯峨野、清涼寺に幼い子供を連れた男がやってきます。
男は奈良、西大寺のあたりで迷っていたこの少年を拾い、清涼寺の大念仏に来たのです。
男はこの子供に面白いものを見せたいと門前の男のすすめで、
女物狂、百万を呼び出すためにわざと下手に念仏の音頭をとります。
この念仏に誘われて百万が現れ、なんと下手な念仏よと門前の男をささで打ち、
追い払い、私が音頭を取ろうと念仏をとなえはじめます。
そして、さらに子を思う心情をうたい舞います。―以下笹ノ段―
「一世限りの親子の道に執着して子を思う心の闇をはらすことができない。
やっと世を渡る身でありながら、その上『子は三界の首枷』となるのか。
牛が車を引き続けるように私は永遠に子にひかれて行くのです。
百万はさらに自分の身なり、やぶれた着物のことなどを謡い舞い、乱れ心ながら
信心をするのもわが子に逢うためです。仏様どうぞ我が子に逢わせて下さいと祈ります」。
少年は母であることに気づき、男によそごとのようにたずねるよう頼みます。
男が郷里や、どうして狂人となったのかとたずねると、百万は幼子に
生き別れになったので心が乱れてしまいました。こうしてあちこちの人に面をさらして
歩くのも子にあうためで、ただただ仏様におすがりするだけです。
我が子に逢うための舞です。百万の舞を見てくださいと、故郷を狂い出た心情や、
奈良から清涼寺までの道中の様子、春の嵯峨野の景色や清涼寺釈迦堂のいわれなどを
曲舞につくり、謡い舞います。―以下曲(クセ)―
どうであろうか。
非常に辛い話であるが、こころひかれる演劇である。母のこころというものが。所詮オレ如きには理解できないことなのであろうが。さすらい人の心情も舞うのである。折口信夫のマレビトである。これにはこころひかれる。房総の地に限らず、芸能というものには哀しみがある。
文学もそうだ。
「哀しみ」というものが、基層にある。
宗教もそうだ。哀しみがあるから、救済を求めるのであろうと思っている。人生は楽なこと、明るいことばかり続くのではないからである。たまには、辛くて、苦しくて、助けてくれーと云いたくなる場面だってあるからである。
学部の卒論で、そのことを扱った。椎名麟三とドストエフスキーである。懐かしい。そんな時代もオレにはあったのだ。
オレのやってきたことはすべて、教師という仕事で還元できたと自分では思っている。そして、それももう終わったのだ。
本当に、もう終わったのだ。
それでいいのだ。
これ以上なにを求めることがあろうか。
こだわって無明の世界を生きることもない。
昨日、吉本隆明の「最後の親鸞」を本千葉にある古本チェーンで買った。読み続けている。やはりものが違う。親鸞もそうだが、吉本隆明ほどの思想家がなぜ親鸞に興味を持ったのかということである。
なんとなく、能「百万」ときっかけが似ているような気がしているのだけれども。
さ、今日は講義をさせていただいている方の大学に出かける。
若い方々との対話である。
こちらも楽しみである。
夜は、塾に行く。こっちも随分楽しみである。
もっとある。孫の子守である。元気で明るい笑いが、オレの家にはあふれている。ありがたいもんである。感謝である。
合掌~チーン・・・・・(^_-)-☆
本日の朝日新聞投書欄に「無職 日野資純 88歳」とあったが、室町幕府を支配した日野富子を出した堂上家、旧伯爵家の末裔である。お元気そうだ。 pic.twitter.com/TQeqtFwD73
千葉市に出かけた。
相変わらずである。遠い。オレの居住地は田舎だから、電車で行くしかない。片道2時間コースである。往復で4時間近い。... blog.goo.ne.jp/tym943/e/1f61b…
STAP細胞は不正が露見してからは、共同研究者の間で罪のなすり付け合いですか。なんだかね。このチームの方々って、信頼関係があったのかな。できることなら、喜びも悲しみも分かち合える人と一緒に仕事をしたいものだ。現実は簡単ではないけれど。