今日は私も始業式であった。生徒としてである。老人大学の生徒として。そうなのだ。今日から老人大学が始まったのである。
・今日から二学期が始まる。
・小学校が楽しみではないと思うのは
・私も始業式であった
1 今日から始業式であった。関東地方はである。東北地方のような寒いところは、早く始まった。当然であろう。それくらいの地域差がないとやってられない。東北地方は寒いからである。地域によって教育が違っていいと思っているからである。
むろん、教育格差がOKと言っているのではない。天候や年間行事計画によって二学期の始まりが異なってもいいのではないかと思っているからである。例をあげると、かつて地域によって教育予算は異なっていた。実はこれこそが教育改革論議の一番重要なファクターであると思っているのだが、今は触れない。しかし、教育予算が地域によって異なるというのは今に始まったことではない。大昔、義務教育は国家予算からの補助がナカッタ。それを、村里の篤志家とかが、土地も含めて小学校を建てて教育に邁進してきたのが我が日本である。
ちなみに、藩校の数も半端なものではない。すでに江戸時代で教育レベルでは世界一だったのではないのか。そう聞かされたことがあるからだ。
ところで、今朝は多くの小学生がルンルンと学校に行っていた。楽しそうにである。これだと、我が日本も心配ないって思った。なんだか考えることがジイジですな。ジイジ。こっちも、孫二人いるから当たり前のような話である。
こうやって順調に育ってほしいと思う。
どのおさな子を見ていても本当にそう思う。実際にこっちは孫がいるから、余計である。余計に孫と同じような小さい子をみると応援したくなる。
どんな家庭で育っているのかなぁ~とか、おとーさん・おかーさんは元気で暮らしているのかなぁ~とか思ってしまう。片親だったら、どんな心配ごとがあるのだろうかとも考えてしまう。あるいは、両親ともおられないというケースもあるだろう。
そういういろいろなケースを踏まえて日本の教育は展開している。
2 しかし、中には小学校なんか暗黒の思い出しかないという方もおられる。教師嫌い症候群である。教師ほど嫌いなものはないと思っておられる方々である。
秀才に多い。
教師が、クチで言う事と行動が一致しないから、教育そのものが大嫌いだと言われる方もいる。
教師くらい信用できないものはないとのたもう方もいる。
なぜそうなるのか。
秀才ほど教師嫌いが多いというのは、わかるような気がする。秀才は、なにも教えてもらわなくても自分で自学自習すればできるからである。
だったら教育なんて不要だとなるか。
そうではない。
秀才というのは、ご自分のコミュニティだけを大事にしているだけなのである。自分の価値観とか、考え方、感じ方というものを知らず知らず守っている。
両親から学んだのだ。そういうことは。家庭環境もそうだ。あまりこういうことは言っちゃならないのだろうけれども、そう思う。
そして、そういう秀才は、三歳で神童と呼ばれる。あまりにも優秀だからである。周囲の期待も大きい。そして学校における地位というか、クラス内の順位というものが重要なものになっていく。リーダーシップというのも、それでもって育っていく。
だが、だが・・・・多くの神童たちは、二十歳で「凡人」となってしまうのである。99%そうなる。なぜか。敗退するからである。すべての経験は、自己満足や欺瞞、あるいは独占等々を打ち砕いてくる。簡単に言えば、「のぼせるな!」と鉄槌を下すわけである。
これが貴重な体験になる。
そうなのだ。人間は周囲の人間との関係性でもって生きているからである。
独善性ばかり強くて、オレがオレがというタイプではいかがなものか。欲望だけで生きていられるワケがない。
あげくの果てには、始業式の校長の話を聞いていないし、時間ばかりかかって校長なんて大嫌いとかやり始める。担任の先生に対してもそうだ。夏休みの宿題を提出しなければならないから、嫌いになってしまう。
すべて自分勝手なオノレだけのコミュニティしか存在しないからである。
そういう私的空間が肥大化してしまったのが、現代である。
私はそれを嘆いているのだ。マジに嘆いている。退役軍人ならぬ退職した昔の教員であったからこそである。
3 今日は私も始業式であった。生徒としてである。老人大学の生徒として。そうなのだ。今日から老人大学が始まったのである。
高齢者だから全員体育館に集まって、トップのお話を聞くというようなことはない。
もし、それをやられたらお歳の関係でばったばったと倒れてしまう高齢者が多くなる。それは避けたいであろう。
老人大学から救急車が出ていったら、問題が大きくなっちまう。
他にする事も無いから、惚け防止のために、身体とこころの健全な現状維持のためにと思ってこの四月から始めたことである。しかも、三月十六日まで現役の大学院生(最終学年)であったから、退学したときはある種の怖れがあったからだ。つまり仮面性の高齢者うつ病を発症したらアウトだと思っていたからである。それをなんとしても防止したかった。
あれだけ熱心に論文を書いていて(一日13時間)、まるっきり今はなにも書いていない。当然なにかの病気になるだろうと予想したからである。
大学院での楽しかった教授との語らい、クラスメイトたちとの議論、さらにいろいろな学会にチャレンジしていた日々から完全にリタイアできるだろうかという不安があったからである。
結果はできた。
ある意味、老人大学に通っていることが精神衛生上非常によかったことになる。
甲羅が私にぴったりだったのである。
甲羅にあった生き方をすべきであったと、今はしみじみ思う。だから感謝しているのである。
今日は、老人大学の授業が終わってから学校の草むしりもした。否、お世話になっているのだから、させていただいたということである。感謝である。感謝のこころを持って、草むしりをしていた。現役教師時代に、高校生諸君と一緒にそういう体験もした。今も、草むしりをしている。
不変である。
こうやっていろいろやりながら、余生の時間を過ごしていくのだろうなぁ。
老人大学から帰ってきてからgymにも行った。
だから、ブログの記事を書く事ができなかった。今、21:43である。塾の教材研究もやっていない。明日古文書講座があるが、その予習もしていない。もっとも古文書講座の方は、かなり先の方を自学自習してノートは作成してある。
今日は、これから東野圭吾のミステリーを読んでから寝る。きっちり、ページ数を決めて読まないとまた明日になってしまう。
寝るときは、寝る。
これである。これ。
じゃぁそろそろ。
(^_^)ノ””””