文系学部不要論では、実にいい勉強になったですな。無知だから。こっちは。田舎ジジイだし。
東京新聞2014 9 2
・文系学部不要論
・無用の用
1 国立大学から文学部というか、人文科学系の学部を廃止せよというように受け取られかねない文科省の通知が騒がれた。案の定、経済界から「そんなことを要求した覚えは無い」という反応があった。経団連からである。以下のソースから知った。↓
http://univlog.jugem.jp/?eid=4299
さらに、天下一の自称エリート集団である朝日新聞からも、コメントがある。
「文科省が、火消しにやっきとなっているという指摘」である。
このことについて朝日新聞がさらにつっこんで書いているからこれもまた引用してみる。↓(http://www.asahi.com/articles/ASH9956F5H99UTFK018.html)
文科省が国立大学に人文社会科学系学部の組織見直しを求める通知を出したことについて、経団連は9日、安易な見直しに反対する声明を出した。通知の背景に「即戦力を求める産業界の意向がある」との見方が広がっていることを懸念し、「産業界の求める人材像はその対極にある」と文系の必要性を訴えた。
その学部、本当に必要? 全国立大に見直し通知、文科省
経団連は声明のなかで「大学・大学院では、留学など様々な体験活動を通じ、文化や社会の多様性を理解することが重要」と指摘。その上で、文系と理系にまたがる「分野横断型の発想」で、様々な課題を解決できる人材が求められていると主張した。
また、国立大学の改革は国主導ではなく「学長の強力なリーダーシップ」で進めるべきだとも指摘し、政府は大学の主体的な取り組みを「最大限尊重」するよう注文した。
経団連が声明を出した背景には、文科省の通知が「文系つぶし」と受け止められ、それが「経団連の意向」との批判が広がっていることがある。就職活動中の学生らに誤解を与えかねないとの懸念があった。榊原定征会長は9日、記者団に「『経済界は文系はいらない、即戦力が欲しい』という報道もあったが、そうじゃない。即戦力(だけ)を期待しているのではないということを改めて発信したかった」と説明した。
文科省は6月、教員養成系や人文社会系の学部と大学院について廃止や転換を検討するよう全国の国立大学に通知した。文系を「ねらい撃ち」にした理由について、文科省の担当者は専門分野が細かく分かれた人文社会系学部の「たこつぼ化」を挙げる。社会で必要な課題解決力とコミュニケーション力を身につける教育や、地域の就職先など学生の将来を見据えた教育が不十分だという。(後略)
またまた出てきた言い訳である。
情緒的な責任なすりあい論である。幾多の教育改革と自称してきた理念が、たいしたデータ的な根拠もなく展開されてきたことは、自明のことである。それと一緒でしかない。そういうことを繰り返してきただけの論理が透けて見える。
そもそも教育改革というのは、政策的な意味合いがかなり強い。早い話が、選挙で票になるからだ。さらに、教育荒廃の責任を現場の教師たちになすりつけていれば、一応の対策にはなる。それがどんなにまやかしであったかということは、それこそ情緒的に理解できる。なんでもかんでも情緒的に言えばいいというのも見えているからである。体験上。
今じゃ、教育現場はブラック企業化している。どんなにガンバッテも教師たちは残業代すら出ない。教育を経済用語で語るのに、肝心の手当すら出そうともしない。バカバカしくて、呆れてしまう。しかし、教師たちは子どもたちのためにと自分に言い聞かせて頑張っているのに、社会的な評価をされない。子どもたちに、努力すればなんとかなると授業に、スポーツにガンバッテいるのにである。子どもたちは、努力しているのに、教師を見ていて、あんな程度しかなれないのかと絶望しているかもしれないではないか。
さらに、教師聖職論というのもある。これもまたまやかしである。教師だから聖職なのではない。聖職だから教師なのではない。そんなことを言ったら、完全無欠の人格者、あるいは哲人以外は教師をするとができなくなる。そうではないから、幾多の法律でもって、行動を縛るわけである。当然である。その底には、教師は聖職ではないというのがあるからであろう。凡人が教師をやっているのである。自称も他称も教師はエリートでもないし、ただの人間である。しかも、法律というのは、放っておいたらなにをするかわからないという人間不信のようなものがある。だから法律でもって縛るわけである。行動を。
それはそれでよくわかるような気がする。性悪論に立っていた方が、結果的には大きな失敗をしなで済む。だからである。
そういう人間観そのもの、大きく考えれば哲学というものは不要であるという宣言が、今回の文科省が出した文系学部不要論であると思わざるを得ないのだ。
2 自称エリートが考えそうな論理である。つまり就職できないのなら無用であるという暴論である。いつも書いているが、経済用語でもって、哲学や文学を論じてはならないのである。なぜなら、経済用語だけでもって人間一般を論じることは不可能であったではないか。あの世紀の天才(自称も含む)マルクスでもレーニンでも、毛沢東でもできなかった論理である。
人間の底の底に流れている欲望のことまで、理解できなかったではないか。マルクス・レーニン主義者は。今の中国を見ていてもそれは現実として現れているではないか。爆買いイコール欲望のはけ口でしかないではないか。あれが、理想の共産国家のなれの果てなのかと思うからである。
哲学とか文学がいつの時代も世の中の隅っこにあって、人心の関心をかうことなく、ひっそりと存在したというのもよくわかる。つまり、文科省の言うように、無用だからである。しかし、老荘思想にもある。「無用の用」である。これをどう説明するのか。自称エリートたちは。
○荘子にある。↓
「人皆知有用之用 而莫知無用之用也」
人は皆、有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり
意味
人は、役立つものばかりを追い求め、役に立つか立たないかという狭いものの見方しかできなくなっている。一見役に立たないけれども、本当は有用だというものが、たくさんあるのに、そういったものへは、目がいかない。
「直木先伐 甘井先竭」
直木は先ず 伐られ、 甘井は 先ず竭く
意味
真っ直ぐな木は、木材として役に立つため直ぐに切られてしまう。(曲がった木であれば、その寿命を全うすることが出来る)美味しい水を出す井戸は、すぐに飲み尽くされかれてしまう。(それほど美味しくない水を出す井戸なら長く水をたたえていられる)
○老子の説く無用の用
「三十輻共一轂 當其無有車之用 埏埴以為器 當其無有器之用 穿戸牖以為室 當其無有室之用 故有之以為利 無之以為用 」
三十の輻、一 轂を共にす。 其の無に当たりて、車の用有り。埴を埏めて以って器を為る。其の無に当たりて、器の用有り。 戸牖を穿ちて以って室をつくる。其の無に当たりて、室の用有り。故に有の以って利となすは、無の以って用を為せばなり。
意味
30本の幅(スポーク)が轂(車輪の中心)に集まっている。その無の空間があってはじめて車輪として役に立つ。土をこねて器を造る、器の何も無い空間があるからこそ器として役に立つ。
扉や窓などの穴をあけて部屋を造る、その無の空間が部屋になる。つまり、形有るものが利益をもたらすのは、何も無いことのおかげである。
明治書院 「老子・荘子」参照
どうだろうか?
こういうことをどうやって説明するのだろうか。
もっとも、これまで教育改革の論議でもって説明責任を果たしてきたとは、とうてい思えない教育改革の流れである。
教育改革に財務省がクチだししてきているのだから、当然国民の血税が使われていることになるのに、その当事者である財務省からも説明がない。これでいいのだろうか。これで。
ぜひとも、国家中枢を牛耳っている自称エリートたちからの、真摯なるご説明をしていただければありがたいものである。その時に、太古の昔から連綿と流れ続けている哲学、文学、宗教学の彼らなりの造詣も是非ともお教えいただければ、こんな幸せなことはない。
一介の庶民だからである。
無知の余生を送っているだけであるからだ。
わははははっはっはははっははっは。
ではサラバでござる。
(^_^)ノ""""