記憶力低下から、ささやか生活へと
・記憶力の低下
・ささやかであっても、そういう生活に自己満足することである
1 どんどん記憶力が落ちている。落ちているというのは、正しくないな。もともと落ちているのだが、「もっと」落ちているというのが正しいか・・・・・トホホ。
京極夏彦の「巷説百物語」を同時並行読書法でもって、楽しく読んでいた。そしたら、既に読んだ話をどんどん忘れているのである。登場人物すら忘れている。
情けない。
そのときは、つまり読んでいる時は、完全に覚えているのだ。ところがである。一つの話が完結したら、もう忘れていやがる。そうまさに「いやがる」のだ。
アタマにくる。自分のアタマの悪さに。
で、仕方がないから、A5のメモ用紙(100円ショップで買ったもの)に、メモをし始めた。ところがである。忘れているから、もう一度読み直すことになる。あ、そうか。逆に、これでいいんだと思ったよん。忘れていたら、再読すればいいだけだ。どうせ京極夏彦の作品なんか戯作である。それにノートにとるほどの小説ではない。研究しているわけではないからである。忘れていたら、もう一回読めばいいだけである。
そういう割り切りが必要である。それなら忘れていることを、残念がることもない。もともと無い自信を失うこともない。だったらワシにもできることだと思い直すことにした。
何度も何度も繰り返していくことですな。高齢者の学習法は。しょうがねぇけど。
で、問題は英語とか中国語である。
覚える量が半端ではない。しかたがないから、繰り返して学習するしかない。毎日毎日である。たまには、ブツブツと一人で話してみることもある。これに相手がいればもっと楽しいだろうになぁと思うが、そんな相手がいない。マイッタね。
塾に行っているから、たまには高校生相手に英語で話してみることもある。英語科を設置している高校の生徒だから、これはありがたい。しかしである。そういうスーパーエリート高校の生徒であっても、受験英語主体だから、私のような人間とは肌があわない。そういうことになる。あまり関わっていると、嫌われるからいい加減にしないとアカン。いじめられているとなってしまって、それこそ生徒から総スカンをくらってしまうからだ。
それでも、暗記は楽しい。
覚えることが実感できるから楽しい。これが六法全書となるともうダメだけれども。もっとも行政書士を受験したときは、やったっけな。30歳ちょうどくらいに受かったが、今ではもう無理だ。かなり難しくなったらしいから。それに定年退職後にやれるような仕事でもない。行政書士で開業するには、行政書士会に所属して、高い会費を払わなくてはならないし。もう無理である。
2 今のささやかなバイト生活で十分である。年金生活もしているし。あまり高望みをしているとロクなことはない。
宝クジも当たったら、生活がめちゃくちゃになるらしい。老人大学で、そんなことを聞いた。老人大学には、ライオンズクラブに所属しているようなカネ持ちのじーちゃん・ばーちゃんもたまにいるから、そういう話には実に詳しい。去年だったか、京葉銀行の宝クジつき定期預金でもって、数億円当たった方がいたが、あれが誰だったかライオンズクラブ所属のじーちゃん・ばーちゃんが知っていたのだ。居住地の隣にある市の呉服屋さんだったという。やはりバレるのだそうな。誰が当たったかということがである。その呉服屋さん、とうとう地元に住んでいられなくなって、東京にマンションを買って、移住しちゃったという。
そんなことになったら、かえって不幸だねぇ。
もっともあれか。ワシにそういうことはない。当たるわけもない。宝クジくらい、対費用効果に乏しいものはないからだ。宝クジの券を買っても買っても当たった試しがない。もうやーめたである。夢を買っているという考え方もあるが、夢ならベッドの中で見ていたほうがずっといい。あるいは、大学院で学位をとるという夢。もっとも学位はとれそうもなかったから、断念したが。能力が無くて。学力劣等とも言うけど。
かえってささやかに生活していると、見えることがたくさんある。
自称エリートたちのおかしさがよくわかるからだ。いっぱいいるではないか。自称エリートというのが。なんだか勘違いをしているようなアホたちである。
そういうのはいくらでも見てきた。なにしろいろいろな人間たちと会うのが商売だったからである。そもそも人間を人間らしくするのが仕事だったから。だから、人間に関する識見を磨く必要があった。でないと、子どもを育てるなんていうことはできない。また、やっちゃいけない。人間を観察するだけでは話にならない。人間とはなにか、生きるとはなにか、病気になるとはなにか、死ぬということはなにかということを考えていないと、子どもを育てるというのは危うい職業になる。しかも他人の子どもである。
逆に考えてもいい。
一昨日あたりからマスコミで騒がれている有料老人ホームで虐待をしていた職員の話である。ここもまた深い倫理観と職業意識がないとできないだろう。
報酬が少ないという最大の問題があるが。これはこれでもって解決してあげないといけない。「生老病死」と深く関わるのが、この仕事の方たちである。「生」は、学校の先生たち。「生」と「老」と「病」と「死」が(つまり全部)、介護の方々たちである。学校の先生も「病」に関わることもあるが、それはそれで専門の方々がいる。
経済の追求ばかりが、仕事ではないのである。それはそれで大切な仕事ではあるが。
どちらにしても、ささやかに生きていることでもって、世の中やすべての方々に感謝して生きることである。
これすら忘却の彼方に行っちまっては、アカンですな。オノレに言っていることであるが。
自己満足という言い方もあるかもしれない。
それでもいい。人生なんて、所詮自己満足でしかないからだ。オノレだけが生きている証であるからだ。オノレの人生は自分しか味わえないからだ。
そう思う。
今日は、塾がある。夜。
それまで教材研究をやる。10冊同時並行読書もやりながら。
じゃぁねぇ~!
(^_^)ノ””””