万物は縷々変化して、とどまることなく、人生も人体もただ虚しきものということ、永遠などというものもない。永遠の美女なんて存在しないのと一緒である。
九相図という絵がある。
これは私がいろいろと考えるときに、ずいぶん参考になる絵である。「生老病死」を考える時にである。私も、そんなに長生きはできないだろうから(200歳とか300歳とか=冗談だけど)、今から「死」のことをよく考えないとアカンからである。
さらに「病」と「老」もである。このことを考えない「生」はあり得ない。見て見ぬふりをしても、確実に「生老病死」は来る。特に最後の「死」である。誰だって100%死ぬからだ。現代文明は、とくに「死」を忌み嫌い、「老」も「病」も考えのうちに入れていない。だからアンチエイジングとかが流行る。いつまでも若く、美しい状態でありたいという無理な発想を持つ。
これがいかに無理なことか、我々はもっと見つめるべきである。逃れようのない真理が「死」だからだ。誰だって、明日生きて居るかどうかはわからないのだ。さらにどんな美女も、老いる。美女かどうかなんてことは、オノレの感じ方でしかないのであって、誰でも美女かとなるとそんなことはない。自分勝手にそう思っているだけである。
若い時に、美人だった方も、年齢と共に老いる。そして若い時の面影はまったく無くなってしまう。仕方がないのである。加齢をしたからである。永遠に若々しく、美しく生きていられるわけもないのだ。それをどんなに否定しても無理である。無理なものは無理なのだ。そういうのを無駄な抵抗ともいう。
若くていきいきとして、しかも美しいという若者は、次から次へと現れてくる。当然である。後から生まれたからだ。そしてそういう若者がこの世の中を支えていく。
ありがたいことである。ジイジとしては、感謝するしかない。
で、今日は、京極夏彦の「巷説 百物語」のことを書きたくてここまで引っ張ってきた。
この中に「帷子辻」という短編がある。これが冒頭にあげた「九相図」から発想を得ている作品で、しかも読ませる。京極夏彦の傑作であるとまで、私は思っている。なぜそう思ったか。まさに「生老病死」のことが書かれているからである。さすがに京極夏彦さんは、現代の語り部である。すばらしいもんである。こういう作品からなにかと考えることは多い。
さて、「帷子辻」である。
この題名は、京都の地名である。帷子辻(かたびらがつじ)は京都市北西部にあったとされる場所である。現在の「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」付近と言われる。京都には修学旅行の引率でなんども行ったし、これでも中世文学が好きでいろいろとやっていたから、自分でも数知れないくらい出かけていった。そして、必然的に知ることになった地名である。
その場所に、京極夏彦は、屍を捨てる場面から始めるのである。これはこれは。かなりの衝撃である。嵯峨天皇の后であった橘嘉智子(たちばなのかちこ)様がこの帷子辻にはからんでくる。世にいう檀林皇后様が身罷られた時に、死してなおご自分の亡骸は、弔いもせず、埋めもせず、辻にうち捨て野にさらせと言いのこされた方でもあると伝えられている。
万物は縷々変化して、とどまることなく、人生も人体もただ虚しきものということ、永遠などというものもないということを示しておられるというのだ。
世にも類い無き麗人であった皇后が、骸を野ざらしにせよ、雨ざらしとせよと言われるのである。亡骸が腐って、朽ちてゆく様を、あるいは禽獣に喰われていく様でもって、色香に迷っている者ども(私のようなモノだ)を、導き救われたというのである。
それが帷子辻であるというのである。
つまり、それが九相図を材料に描かれているのだ。
これは私の学位請求論文になる予定であったゴミ論文のテーマでもあったから、かなりおもしろい材料である。そして、九相図を資料としてこれほど見事に小説に仕立てあげた京極夏彦の力量に感服した。
ちなみに九相図とは、ウキに以下のように書かれているから引用してみよう。
九相図(九想図、くそうず)とは、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画である。
名前の通り、死体の変遷を九の場面にわけて描くもので、死後まもないものに始まり、次第に腐っていき血や肉と化し、獣や鳥に食い荒らされ、九つ目にはばらばらの白骨ないし埋葬された様子が描かれる。九つの死体図の前に、生前の姿を加えて十の場面を描くものもある。九相図の場面は作品ごとに異なり、九相観を説いている経典でも一定ではない。『大智度論』『摩訶止観』などでは以下のようなものである。
脹相(ちょうそう) - 死体が腐敗によるガスの発生で内部から膨張する。
壊相(えそう) - 死体の腐乱が進み皮膚が破れ壊れはじめる。
血塗相(けちずそう) - 死体の腐敗による損壊がさらに進み、溶解した脂肪・血液・体液が体外に滲みだす。
膿爛相(のうらんそう) - 死体自体が腐敗により溶解する。
青瘀相(しょうおそう) - 死体が青黒くなる。
噉相(たんそう) - 死体に虫がわき、鳥獣に食い荒らされる。
散相(さんそう) - 以上の結果、死体の部位が散乱する。
骨相(こつそう) - 血肉や皮脂がなくなり骨だけになる。
焼相(しょうそう) - 骨が焼かれ灰だけになる。
死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。九相観を説く経典は、奈良時代には日本に伝わっていたとされ、これらの絵画は鎌倉時代から江戸時代にかけて製作された。大陸でも、新疆ウイグル自治区やアフガニスタンで死屍観想図像が発見されており、中国でも唐や南宋の時代に死屍観想の伝統がみられ、唐代には九相図壁画の存在を示唆する漢詩もある。
仏僧は基本的に男性であるため、九相図に描かれる死体は、彼らの煩悩の対象となる女性(特に美女)であった。題材として用いられた人物には檀林皇后や小野小町がいる。檀林皇后は信心深く、実際に自身の遺体を放置させ九相図を描かせたといわれる。
どうであろうか。
私はこれをいつも見て、戒めとしている。だから、奇人変人と言われるのかもしれない。しかしである。こいつは真理である。一休さんも同じことを言われている。いつまでも生きていると思うなよ、いつ死ぬかわからないのが人間ですよと。
まさに戒めである。
これくらいショックな戒めはない。
浮かれて、その日暮らしをしていて、働く事もせず、楽しい楽しいと酒池肉林の日々を送っていてもいいのかという戒めになるからである。
どうかすると私は、そっちの方に活路を求めてしまうからである。どうしても浮かれている方が楽だからだ。その日その日だけ生きていられればいいとか、あるいは酒に溺れ、美女に溺れ、バカバカしい生活を送っているほうが楽しいからである。
そのうちには、浦島太郎ではないが、竜宮城から帰ってきたら、もう後は老いと死しか待っていないっていう寸法である。
ナンという空虚な人生ではないか。
現役時代には考えもつかなかった思いである。
なんでか。
それは生きていることが永遠に続くという前提のもとに働いていたからである。誰だって、自分の会社が綺麗さっぱり無くなってしまうとか、職業も含めて、自分のやっていることが一過性のものでしかなかった、ということを知ることは寂しいもんであろう。
それこそ空虚というものである。
しかし、真理である。みんな消えて無くなってしまうからである。死んだら。
「巷説 百物語」は、古本店で108円で売っている。九相図を思い出しながら、人生を考えるのには好材料である。
今日は、大雨である。そして、夜、塾もある。塾では今日書いたようなことは言わない。若者にはこれからの人生おおいに羽ばたいて欲しいからである。言わずが華である。ただのジイジの戯れ言でしかないからだ。
さ、これから塾の教材研究と、専門学校の仕事をする。いろいろあるんで。午後はgymに行くけど。
じゃぁねぇ~。
(^_^)ノ""""