正当な表現に対するパロディや軽く茶化した表現のことを戯作と呼ぶようになった
・京極夏彦の書斎
・現代の戯作者
1 京極夏彦の書斎というのを見た。凄いもんである。量がである。これくらい無いと小説も書けない。だったら、アタシャ大論文なんか永久に書けないというもんじゃな。笑ってしまう。オノレの書庫なんて、話にならないからだ。
こんなに勉強しておられるのだ。こんなに。
司馬遼太郎の蔵書量もものすごいが、周囲の反応がもっと笑ってしまう。こういう写真をネタに2チャンネルあたりで、嘲笑しているからだ。どうせすぐ死んじまうのに、ジジイの癖して無駄だろうとかあちこち書いている輩がたくさんいるからだ。
こういう反応は、書物を集めてもなんのメリットもないという類いである。経済的に役に立たないから、無駄である。むしろ存在そのものが社会的に迷惑だというようなものである。いいじゃないか。スキなんだもの。意味がないからやっても無駄だと言うのだったら、なんだって無駄である。人間そのものも。存在自体が無駄であるかもしれないではないか。大自然にとっては迷惑千万かもしれないではないか。破壊ばかりしているのだから。
学問とか学習ということを、なんでもかんでも経済用語でもって割り切ることには徹底的に反対である。そういうことを言っている輩を見ると、反吐が出る。
ライセンスを取得したいから、大学とか大学院に進学するというのまで否定するつもりはない。それはそれでなかなかのものである。
昨日あたりから、明治大学法科大学院の司法試験問題漏洩が騒がれているが、それとは別問題である。これも、あまりのことと言えば言える。がっかりした。そうなんだ。そういうことになっていたのかということであった。私の感想は。昨日の司法試験の結果発表には格別の関心があったからである。知人の子息が司法試験を目指していたからである。慶應の法科大学院を出ているからである。
どうなったのかなぁということである。慶應といえば、親戚の娘も博士後期課程に行っている。こっちも学位を取得できたのかなぁと心配している。まさか私のように途中で挫折したりはしないだろうから、ある意味安心はしているが。
こういう試験や、有名な作家というのは、資料の量がある程度ないと合格もしないだろうし、小説も書けないのだろう。私のような門外漢にはわかりゃしない世界である。十分尊敬に値する。すばらしい努力がその影にあるのだろうから。
まねをしたいものである。努力だけは。資質は最初からないから、それくらいはまねをしたいものだ。
京極夏彦もそうだが(司馬遼太郎も)、売れている作家というのは、普通ではない資料がバックにある。だから書けるし、書いても売れる。そういう普通ではない努力があるからである。私のような凡人にはわからない努力があるのだろうと思っている。
学者先生や研究者という方々も同じである。私のようなボンクラにはわからない努力・精進が背景にある。そういうことにずいぶん憧れたが、遠い世界であったなぁ~。
後は余生をおもしろおかしく生きていくしかない。時間つぶしに、10冊同時並行で読書でもしていくしかない。だから経済的になんの価値もないと言われてしまうのだ。バカだったよん。意味をそこに求めるのだったら、再就職のために生涯学習をしているということにして、どっかでまた学生をやるしかない。しかし、私にはその気が無い。再就職というのがない。いまさら雇ってくれるところもない。当たり前である。
経済的価値がないからだ。わはははっはははっはである。あああ、バカバカしい。
2 京極夏彦は現代の戯作者である。非常に楽しい。妖怪とか、いろいろな化け物も出てくる。これはこれは。まるっきり、庶民の味方ではないか。売れるのもわかるような気がする。作品が書店に並ぶのを楽しみにしている方々も多いのではないだろうか。
書く本、書く本が売れている。ベストセラーにも何度もなったことがある。
なかには、ホントかね?と思うような作品もあるが、まさか真っ赤なウソ話に真実を求める人はいないだろう。村上春樹の恋愛ウソ話をホントだと思って、オレもアタシも同じような恋愛をしてみたいと勘違いするのと一緒である。
私だったら、村上春樹を鵜呑みにはしない。村上春樹のようなバカバカしい恋愛をしたいナンテ思ったこともない。そんなことより、オノレの顔をなんとかしたい。いや、顔じゃないな。カミの毛じゃな。ふさふさした神のようなカミの毛だよん。だからバカバカしいと言っているのである。
そんなことは虚妄でしかないではないか。
すべてを虚妄としていれば、安全な人生を送ることができる。どっかで勘違いをして、思い上がったり、ドンファンを気取ってみたりしないことである。真実のオノレを見てみたまえと言いたい。すべてはくだらないではないか。勘違いをして早まることなかれ。恋愛も、出世も、その他多くの世間で行われている現象というのは勘違いである。大いなる勘違いからできているんだと思うことである。
勘違いでないのは「生老病死」だけである。
だから私は、老いを、病気を、死を軽んじることはできない。あれ?「生」がないじゃないかと言われるかもしれない。違う、違う。「生」だけ、その本質を見失いがちであるからだ。現象にとらわれているからだ。
そういうことを京極夏彦の作品から得る事ができるのだよ。ま、たいしたことはないのだが。
江戸時代の戯作者たちは、そういう意味で人生の真実をついていると思う。だから面白いのだ。
どういうのがいるって?
いっぱいいる。書き切れない。書き切れないから、ウキから引用してみよう。以下のとおりである。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%AF%E4%BD%9C
戯作は、洒落本、滑稽本、談義本、人情本、読本、草双紙などに大きく分けられる。さらに草双紙は内容や形態によって赤本、黒本、青本、黄表紙、合巻に分けられる。
洒落本
洒落本とは、遊所での遊びの様子を書いたもの。山東京伝の『傾城買四十八手』などがある。
滑稽本
滑稽本とは、おかしみのある話。式亭三馬『浮世風呂』、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などが代表的。
談義本
談義本とは、滑稽さと教訓を合わせ持っていた、滑稽本のはしり。
人情本
人情本とは、主に恋愛を描いたもの。為永春水の『春色梅児誉美』や『春告鳥』などに代表される。
読本
読本とは、口絵や挿絵もあったが、文章中心の読み物であるところから読本と呼ばれた。中国文学の白話小説から影響を受けて生まれた。史実に取材することがあっても基本的にフィクションであり、勧善懲悪思想などを中心に据えた読み物であった。娯楽性も強いが、草双紙などと比べ文学性の高いものと認識されており、初期読本は知識人層によって書かれた。印刷技術や稿料制度など出版の体制が整っていたこともあり多くの読者を獲得したが、発行部数などは草双紙に及ばない。江戸や大坂で上田秋成、曲亭馬琴、山東京伝といった作者が活躍した。
代表的な読本には、秋成の『雨月物語』や馬琴の『南総里見八犬伝』などがある。
十返舎一九の『於都里伎』 1810年
草双紙
草双紙とは、絵に仮名で筋書きが書き込まれた物語。絵草紙(絵双紙)または単に絵本と呼ばれることもあった。子供向けのものが多かったが、次第に大人向けの洒落・滑稽な内容のものが書かれるようになった。表紙の色と内容によって分類される。
赤本 - 子供向け。桃太郎などの昔話ほか。
黒本 - 敵討ちなどの忠義や武勇伝など。
青本 - 少年や女性向けで、芝居の筋書きを書いたもの。
黄表紙 - 大人向けの、娯楽性が強い本。筋書き以上に、言葉や絵の端々に仕組まれた遊びの要素を読み解くことに楽しみがあった。表紙の色は黄色だったが、当時は青本と区別されていなかった。後年の研究者によって分類された。
合巻 - 話が長く、三冊以上の分冊になったものを一巻に綴じたもの。絵入りだが、内容も比較的読本に近い。草双紙と言えば合巻のことを指すこともある。
「戯作」の言葉自体は中国に古くからあり、その影響から日本でも江戸時代以前から使われていた。正当な表現に対するパロディや軽く茶化した表現のことを戯作と呼ぶようになった。
どうだろうか?
つまらないのが多いって?
ま、それもありなん。
でも、最後の一文は堪えたねぇ~。「正当な表現に対するパロディや軽く茶化した表現のことを戯作と呼ぶようになった」という部分である。
こりゃぁ、まるで私の駄文ではないか。パロディや、軽く茶化した・・・・・というのは、私の人生そのものであるからだ。
わはははっはははっははははっっはの「は」。
それではパロディ人間、茶化しているだけの老人はこれくらいで。
今日一日、元気で生きましょう。生きているうちは。
(^_^)ノ""""