アタシの肩書きは「元現役大学院生」だわなぁ~。今年の3月までは。(^0^)
今日は老人大学登校日。朝からそわそわしている?・・・わはははっははは。そうかもしれない。もっとも、他にやることもないから、登校してお勉強してくる。ノートを一冊持って。あと、Kindleも持つ。さらに、ファンタジーも持つ。内職用である。出席もとらないし、レポートも宿題もない。論文も書かなくてよろしいのだ。気楽なもんである。お気楽稼業。
家の中に、アタシがいない方がいいのだろうから、積極的に家を脱出する。当然である。家にいると古女房ドノから叱られてばかりいるからだ。いつまで続くのかねぇ?こんな生活。
死んでしまえば、それで終わりだろうけど、まだまだ死にたくねぇしなぁ。
さて、今朝の朝刊を見ていたら、ついでに目に止まったのがチラシ広告。居住地の社会教育団体とか市の広報とかいろいろくっついてきた。
暇なので、仕方がないからフンフンと読んでいた。そしたらそのチラシのある記事で大笑いをしてしまた。知っている方が(小中学校の元校長)、ある組織の理事長になったということで挨拶文を書いていたのである。その元肩書きに「学識経験者」と書いてあるではないか。そしたら、その組織の構成員にもっといた。評議員とかにである。やはり「学識経験者」とあったのだ。何人もいるではないか。そして、何人も知っている人がいたから、なおのことびっくりしたねぇ。まったく「学識経験者」の大安売りであった。
で、「学識経験者」とはナニかと思った。だから、さっそく調べてみた。大辞泉には「学問上の知識と高い見識を持ち、生活経験が豊かであると社会が認めている人。」「専門領域の学問で評価を受け,豊富な経験と高い見識をもつと社会的に認められる人。」とある。
このことについては、埼玉大学の宗澤忠雄先生の卓説がある。ちょっと引用してみよう。http://www.caresapo.jp/fukushi/blog/munesawa/2009/01/post_29.html
プロフィルは以下のとおりである。↓
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
この先生が、ある会合でもって、いきなり「学識経験者」と呼ばれたということでもってかなりの違和感を感じたと書かれているのである。楽しい文章なので、またちょっと引用する。
この呼称には、どことなく「偉そうな人」であるかのような臭気を感じます。私は自分の指導した学生が卒業してしまうと、私のことを「先生」と呼称させる習慣さえ持ちません。だいたい「学校の教師」なるものが卒業生のことをいつまでも「教え子」と思うような通念は、パターナリスティックでベタベタするような湿度の高さがありますから、私の肌には合いません。その上、卒業してまでも「先生」呼ばわりされ、まだどこかに指導責任が残っているかのような「所定外労働」への傾きに対しても、「卒業したら本人と本人の職場の責任、今さら俺の出る幕じゃないよ、勘弁して欲しい」と、私は涼しく考えるタイプです。
だから、一般的な「先生」よりさらに偉そうな「学識経験者」と紹介された段には、悪寒が走り鳥肌が立ちました。理屈抜きに自己嫌悪に陥りました。それでも、「俺はいつから『学識経験者』をやっているのだろう?」「そもそも『学識経験者』とは何者なのだ?」との疑念がつきまといます。
どうであろうか。
まったく同感である。
今朝の折り込みチラシに笑ってしまったというのは、これが実はベースにある。「悪寒が走り鳥肌が立ちました。理屈抜きに自己嫌悪に陥りました」とまで宗澤先生は書かれている。これこそ見識である。もっともなことである。
教師と教え子とかいう関係性も同様である。宗澤先生は在学中は確かに先生-生徒、あるいは先生-学生という関係が成り立つだろうけれども、卒業したら「先生」とは呼ばせないという。これもまた見識である。すばらしいものである。
もっとも専門性ということについては、確かに逃げようがない。ある程度の専門性はあってしかるべきである。否、それすらもないというのでは、月給ドロボーである。だから日々の研究とかが大切になる。勉強しなくちゃアカンというわけである。
しかしである。
「豊富な経験と高い見識をもつ」ことは、これはこれは・・・・。聖徳太子や菅原道真クラスで無いと不可能である。そんなことを自称していたら、アホかと笑われてしまう。特に「高い見識」である。これは難題である。高いというのだろうから、それは比較される相手がいるということになる。見識に高いも低いもないだろうにと思っているのだが、いかがか?
アホなと~ま君ジイジでは、見識の高低を問題にする前に、そもそも見識があるかどうかの方を問題にする。自分で、である。自分でもって(_ _ )/ハンセイする材料にする。当然である。
まだまだ勉強不足であるからだ。
そんなアホ・ジイジが学位を取りたいなどど、ふざけた目標を持って、この3月まで現役の大学院生をやっていたのだ。これが唯一の肩書きなんだから笑わせやがる。
「元現役大学院生」というのでは、もうどうしようもない。自分的にはあっているけどねぇ~。
さ、ルンルンと今度は現役老人大学生として、登校しまひょ。
弁当持って。一昨日、一緒に「大人の遠足」に行ったクラスメイトが待っているから。(^0^)
では、では(^_^)ノ""""。