あなたはお古で、僕は新品なんだと孫が言ったというが・・・・わはははっははははっはは
「老人にとって素晴らしい体験の一つは、孫たちとの飾り気のない会話である」と、E.H. Ericの本「ライフサイクル、その完結」(みすず書房)に書いてあった。図書館から借りてきた本である。いつも行っている居住地の図書館になかった。なかったから、インターネットで千葉市にある本館から取り寄せてもらった。読んで見たかったからである。
結果、笑ったなぁ。まさにボキそのものである。まったく、まったく。
さらに書いてあった。筆者の孫クリストファーが「おばあちゃん」「あなたはお古で、僕は新品なんだ」と言ったというのである。
これまた大笑い。
孫のクリストファーと一緒に、コッド岬でブルーベリーを摘んでいた時のことである。疲れてきたおばあちゃんの筆者は、岩に座ってひと休みしていた。その時の孫の台詞である。孫の方は元気である。まったくもって頼もしい。
ボキもこうやって孫に言われるのだろうなぁ。仕方なし。
しかしである。
我々には、リサイクルという考え方がある。アウトレットとも言うのかねぇ・・・よくわかんねぇけど。
居住地でも我々老人に対するリサイクルは十分ではない。なぜか。それは経済優先だからである。儲かる奴と、儲からない奴がいるというわけである。
生産に関わっていないから、要らないとなってしまっている。メリット・デメリット論から言えば、非効率であり、非生産性の方が目立つというわけだ。だから老人不要論が言われる。厳しいねぇ。まったくどうしようもない。
該当者のボキとしては、さみしく・腹が立つ。それをガーガーと文句を言っても仕方なしなのであろうけど。
例えば、老人がゆっくりと歩ける安全な歩道や通りを備えた街なみもほとんどない。もっとも、ボキの住んでいる九十九里浜は、田んぼ道はたくさんある。クルマも通らない。だいいち、クルマなんか入ってこれない。安全である。
しかし、それゆえにこそ、途中でちょっと休めるベンチなんか欲しいこともある。
ゼータクだと叱られてしまうのだろうか。
古典とか、歴史的文書には長く生きてきた老人は賞讃され崇敬すらされてきたと書いてある。しかし、現代は違う。
嘲りであり、侮辱の言葉であり、激しい嫌悪ですらある。救いの手があってもかなり大げさになる。プライドはずたずたに引き裂かれてしまう。
周囲は、腫れ物に触るように接してくる。赤ちゃんに接するようにである。
老人が階段でよろけたりしたら、思考力や判断力まで衰えているのではないかと思われてしまう。違うのである。体力が衰えてしまったのであって、知力まで衰えてしまったのではない。
ま、その分努力せよということなのかもしれないが。自助努力のことである。
しかしながら、現代の社会生活の中で、老人の生活設計をどのように組み入れるかという観点は不十分なように感じている。たしかに、弱者である。老人たちは。
それでも、老人であっても世の中の役に立ちたいし、生活設計もまだまだやっていきたいのである。
欲望がなくなってきているからこそ、自己利益のためだけで生活しているのではなく、利他主義で生きてみたくなったのである。
自他共栄の精神である。マジにそう思う。講道館を作った嘉納治五郎の言ったことであるが。
さ、これくらいにしよう。
今日は天気が良さそうだ。
歩いてきましょう。
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