独居老人になっちまうか、野垂れ死にするかわかんねぇけど。
「たとえ一人になろうとも、野垂れ死にだけはしない」というのをモットーにしている。
一人になる可能性はある。家族がいなくなる可能性である。女房ドノが先に逝ってしまうという可能性である。あるいは、子供たちや孫に捨てられるかもしれない。
その時はその時である。独居老人になってしまったボキの境遇を受け入れるしかない。
でも安心している。タブン、ボキの方が先であろうから(^_^)。
問題は「野垂れ死に」の方である。こいつは大いに可能性がある。ちなみに、野垂れ死にとは「道ばたに倒れてそのまま死ぬこと。また,そのような情けない死に方。行き倒れ」と、大辞林には書かれていた。
でも、ふと思った。そういう死に方も良いのではないかと。道ばたの名も無い駅で死んでしまったのが、トルストイであった。葬儀には一万人も来たらしいが。もっともトルストイの場合は、奥様との不和があった。勝手なことばかりやっていたらしいから。
西行もそうだった。かの有名な「願わくば花の下にて・・・」の和歌も野垂れ死にへの憧憬があるのかもしれない。
もっとある。
それは奥州出羽の即身仏である。芥川賞作家の森敦によって紹介された。「月山」である。ボキの故郷の山である。しかし、ボキはまだ即身仏を見ていない。
即身仏のことを野垂れ死にとは言いたく無い。言いたく無いが、野垂れ死にをした旅人を仏にした可能性を森敦先生は書いておられた。驚愕した。
春になったら、月山に行ってみたい。そして実際この目で確かめてみたい。
冬になると故郷の雪山を思い出してしまう。九十九里浜は、まったく雪国とは違うからである。一年中気候温暖で生活するには、まったくなんの問題もない。なんにもなさ過ぎて、人間が惚けてしまう。あ、ボキは元々惚けているけどねぇ(^_^)。
今から故郷で雪国生活をしようと言っても、もう無理である。帰るつもりもない。帰ったって、今さらである。従兄弟や同級生はたくさんいるが。ここが九十九里とは違っているのだ。やはり故郷は故郷である。古い人間関係が残っている。
しかし、今さらである。高校卒業まで育った故郷であるけれども、仕事人現役時代はまったくいなかった。存在すらなかった。だからなにを今さらなのである。
これから、雪深い故郷山形に帰ってみても家もない。やることもない。毎晩、酒を呑んでいたらまた病気になっちまう。
それこそ野垂れ死にの可能性が大である。そして、そんなことをしたら一人ぼっちになってしまうだろう。
今朝、あまりにも寒いのにびっくりしたから、こんなことを書いてみたのだけれども。
ヾ(*´∀`*)ノ