聞き役をつくろう
いつも心がけていることがある。
それが今朝のお題である。「聞き役」を作ろうということである。漠とした不安とか、将来どうするのだというものとか、生きているかぎり誰にでもあるのが、そうした葛藤である。致し方ないことだ。生きているかぎり、いつも順風が吹いてくるとは、限らないからだ。たまには、大嵐もある。先日のように台風がくることもある。
だからといって、自暴自棄になったり、命をおろそかにしたりということであってはならないのだ。
ヒトの生き方というのは、「考え方次第」であるというのが、オイラの根底にある。アメリカのプラグマティズムに影響されてから、ずっとこの立場でこれまで生き延びてきた。そう、まさに「生き延びて」きたのである。
あるいは、ヒトは解釈の生物であるとも思っている。あることをどのように、自分の心の中で解釈するかということが人生を左右する、と。
他人の不用意な発言をどう解釈するかということが、もっとも大切であるような気がするのだ。それでもって、どう生きるかが違ってくる。
これまで教育実践者として生きてきて、ほんとうにそう思うからである。
さらに云いたいことがある。それは孤独になってはいけないということである。一人で悩んでいるのはよくない。経験上、まったくそう思う。「聞き役」を作ることである。だから、あまり不用意に人間関係を、気安く、デタラメに構築しないほうがいいと思っているのは、そのためもある。信頼のおける相手でないと、聞き役を作ることはかえって危険ですらある。なんでもかんでも思いついたことを、ペラペラしゃべらないほうがいい。悪用される。ある意味で。
信頼のおける友人を作るべきである。あるいは、家族ならもっといいだろう。ただし、家族もいろいろな家族がいるから、余計なことを云うなという方々もいることは承知している。
父性的な安定感のある友人、母性的な全てを許容してくれるような友人とか、いろいろおられるだろうと思う。そういう方々に、「聞き役」をやってもらうのである。それでいいのである。たとえ解決策が出てこなくとも、聞き役に話すことによって、自分を逆に発見することができるからである。ここのところが一番重要であると思うのだ。
聞き役ではなくて「話す役」の方々は世間にゴマンといる。自慢型・自己主張の激しい方、上から目線で他人に説教ばかりしている自己欺瞞型・・・いろいろいるではないか。タイプ別に分けるとすれば。
そういう「話す役」に、自分の苦悩は云わないほうがいい。苦痛なだけだ。聞いていないと、「話す役」に徹しているヒトは、気分を害するから。自己陶酔しているだけなのだから。ある意味、アス*ルガー的な性格要因を持っているだけであるから。
愚生は、職業的に聞き役に徹してきた。それがオノレの適性にもかなうと思ってきた。正しかったと思っている。年若い生徒諸君に、どったけオノレの能力や人格が優れていると主張したって、そんなのは何の意味もない。そんなことはしないほうが、ずっといい。無知蒙昧のオレに話す役はできるわけもない。自慢できる材料が全くないからである。オレごときが。
何を悩んで、何が苦しいのかということを一緒に、共に手を携えていくことをこころ掛けてきた。つまらない価値しかないオイラのそれが出来ることであった。世界にたった一つの。
そんなことを今朝は考えた。
こころ安定した日々を、多くの若者に送っていただきたいからである。
さ、今日も元気に生きていきましょう!
笑顔で。
わはははははははは、と。
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