徹底した自己肯定は、さらにもっと徹底した自己否定からくる
自己否定はいけないことだとよく言われる。
心理カウンセラーの書籍や、HP等々にも散見される。あるいは、種々の宗教の書籍にも、HPにも書いてある。つまりマイナス要因というわけである。暮らしていく上では。
そんな自己否定みたいな負の要素を抱えて生きているより、明るく、元気で、精一杯生きていくことであるとされているものが多い。ましてや、もともとが人間は神の子であって、明るく生きていくのが当たり前であると励ますものもある。神に近づこうとするわけである。
どーもボキはずっと疑問に思ってきた。
そう思えないボキのようなダメ人間、クズ人間にどんなに明るく生きていけと言われてもできないものはできないからである。
そんなに人間って明るいもんなのだろうかねぇ。
君は明るくて、将来性豊かな、すばらしい人間だと褒められても信用できないからである。オノレのくだらなさ、バカさに気がついているのは、本人であるからだ。それでもって、こっちは悩んでいるのに、下手に励まされてもオノレがイヤになっちまう。
ボキは、本当にダメだからである。
生きがいを持てと言われても、持てなかった。
そりゃぁやることはたくさんあった。仕事に紛れて生きていると、オノレのくだらなさを一瞬でも忘れることができたからである。それに生きるためには喰わなくちゃならん。一定のサラリーをもらえるのならば、何を今更文句が言えようかと思っていた。
それでも、ボキはそういうのをごまかしだと思ってきた。
だから、生涯学習ごっこをしてきたのである。
資格のためにではない。
ましてや、第二の人生のためではない。
芥川ではないが、漠然とした不安であった。虚無主義と言い換えてもいい。こんな人生、生きる意味なんてあるんだろうかと15歳くらいからずっと思ってきたからである。
文学やその他もろもろの書籍を買ってむさぼるように読んできたのは、ニヒリズムからの快癒を願っていたからである。
そんなアホなボキに、どんなに美辞麗句を用いて「と~ま君よ、君には無限の可能性がある」「将来有望である」「期待しているよ」等々のウソを言われても信用できなかったのである。
人生は虚しいというのが、高校生以来のボキの精神的な核である。いまだにそうである。将来が不安だというような話でない。そんなもんではない。今が生きるに値するのかという考え方が根底にあったのだ。以来、50年間追求しているテーマである。
だから徹底してボキは「自己否定」なのである。
こんなくだらない奴はいないと、こころから思っているのである。
そして、徹底して自己否定をすることによって、ボキは他人に生かされてきたことに気がつくことになる。他人もそうだし、亡父亡母もそうだった。オノレ一人で生きてきたわけではなかった。助けられて生きてきたのである。病気のときもそうだった。一年半前にICUに入っていたときも、そう思った。ICUに入ったのもいいきっかけであった。
ゼロからの再スタートであった。人生をリセットしたわけである。もともと、大学だって新聞配達をしながら貧乏と闘ってきた。本当のプロレタリアである。本来なら、千葉県の高校教師なんかできやしない。その程度の能力しかなかった。ましてや、大学院博士課程に入学して博士をとるなんてぇことも、身の程知らず。ルンペン・プロレタリアであったのだからできるわけもない。所詮木偶のボーであるから。
しかし、ゼロから人生を見直すということもまたいいものである。
否定から肯定へのコペルニクス的転回であったからである。
ここを通らないとなかなか自己肯定はできないのである。そう思う。しみじみと。
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これからは、人生の明るい面だけを見て過ごしていくつもりである。
「感謝」の二文字をこころにしっかり刻んで。
亡父にも亡母にも。古女房ドノにも。ボキの長女、長男にも。孫達にも。それに近所の方々にも。老人大学のクラスメイトにも。塾の生徒にも。アルバイト先の二つの大学の先生方にも。
ああああああああああ、書き切れないほどの方々にお世話になっているではないか。
感謝を忘れてはアカンですなぁ。
マジに。
おおいなる自己肯定のために。
Bye-bye!