と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

自己否定はそんなにいけないことなのだろうか?

2016年08月25日 09時18分42秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

徹底した自己肯定は、さらにもっと徹底した自己否定からくる

 

 

自己否定はいけないことだとよく言われる。

心理カウンセラーの書籍や、HP等々にも散見される。あるいは、種々の宗教の書籍にも、HPにも書いてある。つまりマイナス要因というわけである。暮らしていく上では。

そんな自己否定みたいな負の要素を抱えて生きているより、明るく、元気で、精一杯生きていくことであるとされているものが多い。ましてや、もともとが人間は神の子であって、明るく生きていくのが当たり前であると励ますものもある。神に近づこうとするわけである。

どーもボキはずっと疑問に思ってきた。

そう思えないボキのようなダメ人間、クズ人間にどんなに明るく生きていけと言われてもできないものはできないからである。

そんなに人間って明るいもんなのだろうかねぇ。

君は明るくて、将来性豊かな、すばらしい人間だと褒められても信用できないからである。オノレのくだらなさ、バカさに気がついているのは、本人であるからだ。それでもって、こっちは悩んでいるのに、下手に励まされてもオノレがイヤになっちまう。

ボキは、本当にダメだからである。

生きがいを持てと言われても、持てなかった。

そりゃぁやることはたくさんあった。仕事に紛れて生きていると、オノレのくだらなさを一瞬でも忘れることができたからである。それに生きるためには喰わなくちゃならん。一定のサラリーをもらえるのならば、何を今更文句が言えようかと思っていた。

それでも、ボキはそういうのをごまかしだと思ってきた。

だから、生涯学習ごっこをしてきたのである。

資格のためにではない。

ましてや、第二の人生のためではない。

芥川ではないが、漠然とした不安であった。虚無主義と言い換えてもいい。こんな人生、生きる意味なんてあるんだろうかと15歳くらいからずっと思ってきたからである。

文学やその他もろもろの書籍を買ってむさぼるように読んできたのは、ニヒリズムからの快癒を願っていたからである。

そんなアホなボキに、どんなに美辞麗句を用いて「と~ま君よ、君には無限の可能性がある」「将来有望である」「期待しているよ」等々のウソを言われても信用できなかったのである。

人生は虚しいというのが、高校生以来のボキの精神的な核である。いまだにそうである。将来が不安だというような話でない。そんなもんではない。今が生きるに値するのかという考え方が根底にあったのだ。以来、50年間追求しているテーマである。

だから徹底してボキは「自己否定」なのである。

こんなくだらない奴はいないと、こころから思っているのである。

そして、徹底して自己否定をすることによって、ボキは他人に生かされてきたことに気がつくことになる。他人もそうだし、亡父亡母もそうだった。オノレ一人で生きてきたわけではなかった。助けられて生きてきたのである。病気のときもそうだった。一年半前にICUに入っていたときも、そう思った。ICUに入ったのもいいきっかけであった。

ゼロからの再スタートであった。人生をリセットしたわけである。もともと、大学だって新聞配達をしながら貧乏と闘ってきた。本当のプロレタリアである。本来なら、千葉県の高校教師なんかできやしない。その程度の能力しかなかった。ましてや、大学院博士課程に入学して博士をとるなんてぇことも、身の程知らず。ルンペン・プロレタリアであったのだからできるわけもない。所詮木偶のボーであるから。

しかし、ゼロから人生を見直すということもまたいいものである。

否定から肯定へのコペルニクス的転回であったからである。

ここを通らないとなかなか自己肯定はできないのである。そう思う。しみじみと。

これからは、人生の明るい面だけを見て過ごしていくつもりである。

「感謝」の二文字をこころにしっかり刻んで。

亡父にも亡母にも。古女房ドノにも。ボキの長女、長男にも。孫達にも。それに近所の方々にも。老人大学のクラスメイトにも。塾の生徒にも。アルバイト先の二つの大学の先生方にも。

ああああああああああ、書き切れないほどの方々にお世話になっているではないか。

感謝を忘れてはアカンですなぁ。

 

マジに。

 

おおいなる自己肯定のために。

 

Bye-bye!

 

 

 

 

 

 

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我が日本はまだまだである。発展途上である。伸びしろがあるからである。

2016年08月25日 07時45分05秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

なぜ日本に豪邸街が存在しないか。

 

 

グローバル社会とかなんとか言っているけど、我が日本、まだまだである。なぜか。それは我が日本には、豪邸街というのが存在しないからである。

むろんボキの家も庶民の住むせせこましい家でしかない。それは承知の上で言っている。

豪邸というのはある。チラホラと。数億円以上の物件。しかし、豪邸街となるとなかなかである。そういう町並みというのは江戸時代ならあっただろう。大名屋敷街である。家計が順調だったから豪邸も持てたのであろうから。内実は貧窮していたのかもしれないが。

だから、マンションとかなんとかと言っても所詮江戸時代の長屋と一緒である。

むろん縦に長い豪邸街もあることは承知している。しかし、土地は狭い。縦に長いマンションとかもである。言わばマンション長屋である。さらに、小金持ちの庶民が住んでいるだけである。一部を除いては。

うらやましいとは思わない。

問題は(といってもたいしたことではないが)、住居環境というのが日本はまだまだであると思うのである。住宅環境のソフトはすばらしいものがある。ウオッシュレットしかりである。しかし、ハードの面ではさみしいかぎりである。

なにしろ狭い。狭くても工夫して住んでいるのである。兎小屋と揶揄した外国のメディアがかつてあったが、あれを否定することはできないだろう。

ボキンチは、犬小屋くらいはあるが。入り口から、根性も人相もアタマも悪い純粋日本犬であるボキがワンワンと吼えている。やせ衰えた昔の秋田犬である。昔は凶暴だったけど。今はまったく温厚そのもの。おだやかに生きているだけである。孫もできたし。

わははっはははっははははである。

それにつけても、九十九里浜もそうだが、千葉県内にも豪邸街が存在しない。うらやましいくらいの豪邸がそろっていて、こんなところに住んでみたいというような街がない。さらに千葉県は海抜が低い。沖縄県よりも海抜が低い。ま、それはどうでもいいことだが。

土地に執着しているのである。千葉県人のみではない。庭があって、犬を放し飼いできるくらいの土地にこだわるわけである。

だから千葉県人のみならず家の転売をしないのである。日本人は。住み替えというやつである。ごく少数を除いては。ローンの関係もある。アメリカが盛んなのは、サブプライムローンというのが盛んだったからという指摘もできるが、あれは完全に失敗した例である。だから考えないことにするけど。

しかし、マンションならあり得るだろう。転売を繰り返して。それでもマンションは豪邸とは言いがたい。値段的には豪邸と呼ぶ資格のある方々はおられるだろうが、土地のない住居では豪邸とは呼びがたい。

ヨーロッパの貴族の家には豪邸がある。確かにある。ドイツにも多かった。あれはすばらしい。住めれば住みたいと思うくらいのがある。

特に、バイエルン州のノイシュヴァンシュタイン城はすばらしかった。マリエン橋から見た城は、まさに浦安ディズニーランドの正門から見えるお城のモデルそのものであった。あれは十分に豪邸である。それでも周囲は豪邸街ではなかったが。孤立していたし。まだ某大学大学院に在籍していた時代に行ったのである。古女房ドノのバースディ記念にである(^_^)。それくらいしないと、ボキはこれから捨てられてしまうからのぉ~~~~。マジに。

結論を書こう。

なぜ日本に豪邸街が存在しないか。

それは本当の意味で、グローバル化していないからである。貧富の差も大きいからである。まだまだなのである。日本も。

だからまだまだ我々日本人はやることがたくさんあるのだ。得意の経済分野でも然りである。

今日は天気がいい。

台風10号が気になるが。

朝、walkingにも行ってきたし、午後からまたgymに行く。

夜はアルバイトの塾である。

充実した一日でありたいものである。

(^-^)/

 

Bye-bye!

 

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8月24日(水)のつぶやき

2016年08月25日 05時10分47秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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君、なるべく早いうちに、君の第一印象を書いておきたまえよ。

2016年08月24日 22時05分52秒 | 在野研究ごっこ

「君、なるべく早いうちに、君の第一印象を書いておきたまえよ。第一印象というやつは、あれは君、日増しに影の薄くなって行くものでね、一度消えてしまったとなったら、二度となかなか帰ってこないものだ・・」


小泉八雲が、日本に着いてからまもなく会った懇篤なイギリス人の教授に言われた言葉である。「日本瞥見記」の上巻に書いてある。

さすがに小泉八雲である。

小説家として有名であるが、実は民俗学者としても実績がある。霊魂とかの研究もしたのである。日本にかなり興味を持っていらしたらしいから。

神社仏閣に行った時、あるいは路傍の地蔵さんを見ているときにも「日本瞥見記」はいい。このような旅をしていきたいからである。

もっともボキなんかとはレベルが違うけれど。

これは大事なことである。

第一印象をメモしておくべきであろう。まさに。でないと忘れてしまうからである。どこに行ってもである。

ボキなんか、なにしろどこに行ったかすら忘れてしまうのだから始末に負えない。

だから惚け防止の努力を怠るとあっと言う間に、奈落の底に落ちてしまう。

それにつけても、旅に出たい。

奥深い山のひなびた温泉へ。

山猫が迎えてくれるような。

盆休みもなにもナイから。ボキの場合。

毎日が盆休みだからだ(^_^)。

休みついでに、今日は愛車cx5をディーラーに持っていった。タイヤの空気圧とか、Oilとか調べてもらった。いつでも山奥に出かけられるようにである。マジに。あとは、ガソリンを満タンにすればいいだけにしてあるのじゃ。

ああああああああああ、山の精霊がボキを呼んでいる。

温泉とささやかな山菜料理と、朝市で珍しい山のものを買って喰いたい。

美味い団子も喰いたい。

団子は、山形県の団子に限るからじゃ。

最上千本団子がいい。

最上川中流の大石田町にあるけど。

あ、これだと山の精霊がボキを呼んでいるんではないな。

団子じゃ、団子。

団子がボキを呼んでいるってぇこっちゃ(^_^)。

それにしてもレベルの低い話である。

今日はずいぶん書いた。

拙ブログを。好きなんだねぇ~。

駄文だけれど、脳トレにはなっているようだし。

これでよし、これで。

好きなことはずっと続けた方がよろしいから。

 

また明日!

 

 

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本当に教育は劣化しているのか・・・そんなに日本の教育はダメなのか

2016年08月24日 19時15分39秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

なぜ日本の教育論議は「信念の吐露」にすり替わってしまうのか

 

 

 

巷間、教育は劣化しているばかりだと言われる。そういう論調で教育現場を責める発言が多い。マスコミも、政治家も、保護者も、生徒もそう言っているとのことである。

しかし本当にそうか?

もし百歩譲って教育が劣化しているとしたら、証拠はあるのだろうかと思うからである。数値はなんだろうかとも思う。材料はなにかとも思う。

よく言われることに、ゆとり教育が日本をダメにしたというのがある。

これも本当にそうなのか。おおいに疑問である。

リオ・オリンピックでメダルラッシュに沸いたが、今回の選手達はそれこそゆとり世代である。ゆとり世代だからこそ、メダルを取ることができたのである。自分で目標を設定して、まさに自分で努力した結果であるからだ。総合的な学習のスポーツ版である。ボキはそう思って毎夜テレビ観戦をしていた。

むろん選手達の周囲の人間達が、情報戦略を立てて努力した結果でもある。柔道も情報担当が80人とかいたと聞いているし。

これを教育が劣化したからメダルがとれたのだという論調にはまだお目にかかっていない。そんなことを言ったり、書いたりしたら袋だたきにあうだろう。

スポーツの分野ではなくて、学力が低下したというのなら話はわかる。数値的にもこっちの方はあきらかになる。証拠があるからである。OECDによる調査でもって経年比較をしたら簡単にわかる。順位を出してくれているからである。国別対抗の。

学力が低下しているというのなら、低下する以前に戻せばいいだけである。時間数もそうであるし、教育内容もである。

それをである。

オノレの受けてきた昔の教育がいいから、あるいは昔は熱心な先生がたくさんいたから、またまたあるいは社会全体が教育に熱心であったから・・・等々の体験的な話しか聞こえてこないのはなんでだろうか。

こと教育に関しては、オノレの信念を吐露しているだけになってしまうのが通弊である。体験しているからである。現状を否定して、オノレの受けた教育が一番であるとのたもう。

信念に付け加えて感情論も入ってくる。教師達への個人批判である。感情論というのは、そういうことである。

これが一番始末に負えない。

さらに「なぜ教育が必要なのか」ということを語ろうとしないのが、日本である。

教育はなぜ必要なのか。経済活動のためにのみあるのか、カネカネカネですべてを決めていいのか。

教育を受ける本人も含めて、社会も必要としているのが「教育」である。本人も社会も「知」を求めて努力すべきである。その結果が、社会の進展につながる。技術開発やシステムの設計などには知的活動が必要だからである。勉強することでもって、それは可能になる。勉強しなくちゃ「知」の獲得はできない。それを習得させるためには、強制的にでも勉強をさせることが必要である。

学校はそれにこたえようとしてしてきた。明治維新以来、めざましいほどの学校教育の進展ぶりである。

しかしである。

学校にこれまであまりにも多くを求めすぎたのではなかったか。

教師個人にもまるで聖人君子のような要求をしてこなかったか。

理想論ばかり焦って求め過ぎたのではないのか。

現実を見てきたのであろうか。

昔の教育だけが立派だったのではない。

今だって、立派な教師は数多い。

昔より、いろいろな意味で制約されている今の教師達の方が、立派である。戦後すぐの時には、軍隊帰りの教師達もいたはずである。しかも、現在でも全国すべての県にある国立大学教育学部は戦後やっと大学になったばかりであったし。教育自体、そんなに期待はされていなかったのである。

現代の教育は、アクティブラーニングとかの手法も出てきたようだし、実に多種多様になってきている。

逆説的に考えてみればいいと思っているのである。

教育がダメになったというのなら、どこがどうダメになったのかということをである。

昔は、教育に寛大だったから見えていなかった可能性がある。政治家と一緒である。昔の政治家の方がたくさんの問題を抱えていた。維新後すぐは、まさに私利私欲で動いていた政治家が多かったではないか。

現代は、教育と政治家に対して寛容ではない。厳しいだけである。都知事選でもそうだったではないか。

これを昔は良かったというだけでは、いかがなものかと思う。昔は良かった、今はダメというのでは、議論にもならなない。

 

結論を言おう。

教育は昔も今もそんなに変わっていないのである。それこそ教師の個人的資質が命運を握っている。だからこそ、個人的資質を向上させるために厳しくオノレを律していくしかないのである。それが王道である。

これくらいにしよう。

書いてみたかったことであるから。一度は。

 

Bye-bye!

 

 

 

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この本はある意味思い出に・・・

2016年08月24日 18時29分02秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
 
あの頃、ぼくらはアホ・オタクだった・・・トホホ(今でもそうか)
オタクを気取って、「お勉強!」といくか 「おたく」の精神史 一九八〇年代論 新書 – 2004/2/21 大塚 英志 (著) 講談社現代新書今日はこれ!......
 

 

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アメリカ、中国、イタリア、フランス、スイス、インドよりも、国内のひなびた温泉で山菜料理でも食いながら(^_^)

2016年08月24日 08時01分44秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

またまた旅に出かけたいという「虫」が、うごめき始めた。病気ですな。病気。完全に。

 

 

ところで・・・いきなりなんだ?と言われてしまうが、まさにいきなりである。ところで、昨日モニュメントバレーのことを思い出してしまったのだが、あのときに現地を案内してくださったガイドさん(日本人の老人=と言ってもボキと同年配らしき人)のことである。

彼は、なかなかの人物である。若い時に単身でアメリカに渡ってきて、語学の修行をしていたと言っていた。どーもその話は、表面上はホームステイと言っていらしたが、眉唾ものだとボキは思う。

なんとなく感じたのであるが、奴隷として生きていたのではないのか。ホームステイ先で働いていたと言っていたし。奴隷が悪ければ家僕。

人種差別的な感覚というのが、確かに彼の地には存在していると思う。なんとなくではない。レストランで朝食を取るときに、「イエロー・モンキー」と言われたのをはっきりと覚えているからである。

白人には我々日本人がイエロー・モンキーに見えるのであろう。先住民族を追い出して現在のアメリカを作ってきた移民の世界であるからだ。現代中国とその部分は手法的に重なって見えるのだがいかがか。

両国への憧憬というものはない。ボキには。古典の世界にある中国はかなり興味があるけど。アメリカには、せいぜい西部劇程度である。これまた現代アメリカには興味がない。

中国もそう。現代中国にはまったく興味なし。しかもである。夜の遊びに関しても現代中国はかなり進展していて、ホントに共産国家なのかと疑ってしまう。鬼来迎と目連救母との関係で厦門には興味があるが、これまた古典の世界の中国であるから興味があるだけである。

どこが好きだ?と聞かれたら「日本」である。狭いと嗤われてしまうかもしれないが。もっともそんなに海外旅行に行ったわけでもないから、大きなことは言えねぇ、言えねぇ(^_^)。

ど~にもこ~にも、おもしろくもなんともない話ではある。

されど、インドにはかなり興味がある。

実は、昨日「地球の歩き方 インド」なる書物を買ってきた。いわゆる海外旅行ガイドブックである。年金暮らしなので、古本チェーンからである。200円。最新版ではなかったが、手始めに読むにはこれでいい。

で、驚いたのが、最初に仏教遺跡を訪問するという頁から始まっているのである。しかもかなりな部分をそれに割いているのである。

これは驚いた。

ま、当たり前と言えば言えるのだろうが、しかしインドは仏教国ではないはずである。ヒンズー教である。

それだけニーズがあるってぇわけだ。

日本人には。

またまた旅に出かけたいという「虫」が、うごめき始めた。

病気ですな。病気。

完全に。

山奥の温泉にでも入って、安い旅籠に泊まって、ゼータク禁止のささやかな健康料理を食べる。そして小説でも読む。Kindleで。

最近は山奥の旅籠でもWi-Fiが充実しているから、ありがたいもんである。

あああああああああああああああ。

物置が台風で壊れなければ、今すぐにでも行きたいですな。

今朝も歩いてきた。

NHKの語学講座を30分聴いてから、この記事をアップしている。

まさに快調。

生涯学習ごっこが。

わははっはははっははっはははっははっは。

 

Bye-bye!

 

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8月23日(火)のつぶやき その2

2016年08月24日 05時09分51秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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8月23日(火)のつぶやき その1

2016年08月24日 05時09分50秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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台風で物置が壊れてしまって・・・トホホ

2016年08月23日 19時00分27秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

今日は物置の修理を試みていたのだが、諦めた。



すっかりダメになっていたのだ。

土台からダメになっていた。

それが台風で露見した。

いろいろ業者を回って製品のことを聞いていた。そうである。物置を取り替えざるを得なくなったからである。

もう25年も使っている。いいかげん有効期限が切れている。それに九十九里浜は塩害がある。海に近いから、南風の時なんか窓に海の塩がくっつくのである。強風の時である。これは、奥州の山深い温泉場で育ったボキはまったく知らなかったことである。

ま、よく耐えてくれた物置である。

まるでボキのようである。耐えに耐え、忍びがたきを忍ぶということである。じっとして物置としての役割を果たしてくれたから感謝である。じっとしていたボキの方は、とうとう生活不活発病になってしまったけど。

でも、物置はいいなぁと思う。

取り替えがきくからである。

ボキ?

ボキは取り替え不能である。

しかも誰も引き取り手がない。

ま、いいか。

そんなもんだろう。そんなもん。

それにしても出費が重なるですな。

(*_*) マイッタ

悪業三昧の生活を送っているからである。


(_ _ )/ハンセイ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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これも意味あるアップでしたなぁ~去年の記事だけど

2016年08月23日 18時59分17秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
 
生涯学習の日米比較が書かれているからおもしろかったですよ~ん
おもしろかったのが、アメリカの老人たちはいわゆる「実用の学問」を好まないのだという 「定年からの人生 日本とアメリカ」袖井孝子著 朝日文庫 「定年からの人生......
 

 

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不穏な日の出前だったんだねぇ・・・・台風の前は。

2016年08月23日 07時13分15秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

昨日の台風9号上陸前の九十九里浜の朝を、youtubeにアップしてくださった方がいたからリンクをかけておいた。ありがたや。

こんな不穏な天気もあるんですな。

それにしても、大自然というのは怖いもんです。

九十九里浜に住んでいるから、如実にそれが理解できる。

東日本大震災以来、自然を舐めちゃアカンですぜと自戒しているんだけれども。マジに。

今朝起きてから、昨日の台風の後始末。

落ち葉を掃除したりとか、物置が壊れたし、その対応をしていた。むろんwalkingもやった。4時30分には起きて。でないと、6時30分からのNHK語学講座に間に合わないので。

さ、今日も一日快適に過ごしましょう。

やるべぇ~~~~~~!

 

 

 

 

 

不穏な日の出前

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8月22日(月)のつぶやき

2016年08月23日 05時12分16秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年
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シェーン(Shane)を、午後からは見ていた。台風が凄かったので。

2016年08月22日 21時11分51秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

台風で身動き取れないから、午後は映画「シェーン」を見ていた。



もっとも午前中は、昨日の観音祭りの舞台とか、幟旗の片付けをしていたけど。この大雨の中を。町内の役員だからしょうが無い。

そもそもこういうのは嫌いではない。むしろ大好きである。

ま、それでも午後からは映画を見ていた。DVDで。

最初は英語字幕のを見ていた。二度目は日本語字幕付。

好きですなぁ~~~。

映画も。

ワイオミング州の風景が実に美しい。それに主演のアラン・ラッドがまたいい。あまりに美男子で、ちょっとフーテンの寅的な生き方のガンマンなのに、かっこうよすぎる。さすらいのガンマンが、一度は足を洗ってまともに農民になろうとしたからである。

それに、いかにもアメリカである。大平原とガンマン。開拓農民とチンピラとの闘い。これもまたアメリカである。

去年実際にアメリカに行ってみたから、よけいにあのいかにもアメリカ的な風景は、「シェーン」にぴったりである。もっともボキは、ワイオミング州には行っていないが。西部劇で有名な土地の方である。モニュメント・バレー(Monument Valley)である。アメリカ合衆国西南部のユタ州南部からアリゾナ州北部にかけて広がる地域一帯の名称である。物見遊山。まったく暇人である。情けないくらいに。

ああいう開拓の歴史を経て建国してきたのだから、アメリカという国は強いわけである。喧嘩の仕方をよ~く知っている。武器も世界一のレベルで作れるわけである。

なにしろ先住民という名のインディアンの住んでいた土地に侵略していって、戦争をしながら、あるいは移民同士で戦争をしながら国家を作っていったのである。

中国も、春秋戦国時代あたりが一番おもしろいのであるが、これまたアメリカの建国の手法と重なる。だからおもしろいのである。今日はとうとう漢文大系の「史記」までAmazonに発注してしまったよん。第一巻だけだけど。あまりにたくさんあって困るくらいだから。それに漢文大系の本は、岩波書店から出ている古典大系本なんかよりもずっと理解しやすい。わかりやすい。岩波の古典大系の「日本書紀」なんか四苦八苦である。今でもまだまだ読みかけである。難儀である。だから「史記」の漢文大系の方が、時間つぶしにはなるのだ(^_^)。

それにつけても、米中両国とも似ているなぁと思う。基本に暴力がある。武と言ってもいい。アメリカは武器の歴史である。中国も暴力革命の連続である。哲人の数は中国の方が多いと思っているけど、ボキは。それも古代の中国のみ。現代中国には興味がないので。

さらに今日は、「おとなの基礎英語」というDVDつきの本をショッピングセンターの中にある書店で買っちまった。NHKの例のやつである。今、ミャンマーに出張で行っている義兄も愛用しているテキストである。

どーせボキは暇人だから、単純な旅行英語でもやっているしかない。

わははっはははっはははっははははは。

でも、あれですな。

シェーンの中に出てくる男の子は、かわいいですな。ボキの孫もこんなふうに、「じじい~、Come back!」って言ってくれるかな?

まさかですなぁ。

この男の子を演じた俳優は、30歳くらいで若死にしてしまったけど。

主演のアラン・ラッドも長生きできなかったでしたなぁ。50代で亡くなったらしいし。

そして、シェーンは馬に乗りながら死んでいたという説もある。最後は墓場の脇を通り抜けているし、左手がだらりとぶら下がっているし。

印象に残る映画です。

いいものはいいから。

また明日!

(今日は合計6000歩のみ歩いた)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シェーン(Shane)

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孫が帰ってしまった・・・元気でねぇ(^_^)

2016年08月22日 07時34分23秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

4歳の方が20歳の成人になってもボキは生きていられるだろうか、と思った。今朝も10年日記をつけたが、これもまだ1年目であるから、あと9年ある。

 

 

昨日孫が帰った。二週間いた。義母の新盆その他親戚の集まりもかなりあったからである。保育園に今日から通園しているだろう。タノシミを奪ったようで彼ら(4歳と2歳の男児)には迷惑であったかもしれない。

しかし、帰ってから思った。4歳の方が20歳の成人になってもボキは生きていられるだろうか、と。今朝も10年日記をつけたが、これもまだ1年目であるから、あと9年ある。

まるで逆算である。死ぬことから現在を見直している。あと何年かということはボキにとっては、非常に大切なことであるから。

なにも焦りはしない。焦っていたって、死ぬときは死ぬ。

ボキの場合、常に死を意識しながら生きているっちゅうだけである。

たいていの人はこれを冗談だと受け取る。とんでもない。いつまでも生きているわけにはいかないからである。誰だって100%死ぬのである。それを普段は忘れているだけである。否、忘れているだけではない。考えようとしないのである。死を意識しないでいることで、メリット・デメリットというような仕事人生活を送っているからである。

しかしである。生涯を仕事だけで過ごすことで、マンゾクしていていいのだろうか。もっとも仕事すらナイという方々もおられるから、それはケースバイケースなのかもしれない。

それでも仕事オンリーの生活には疑問を持っている。ほんとうにそれだけでいいのかという疑問である。ボキの場合、仕事からは放り出されてしまったからそう思うのかもしれない。それを割り引いても、疑問は晴れない。

学者サマ、研究者サマの世界もそうなんだろう。ボキには無縁の世界であるから、よく知らないのであるが。特に、最近若い研究者サマは焦っているように思う。実績が欲しいからである。だから学会に一年間で10回程度論文を書き、学会発表をこなし、学会の役員までねらう。たいしたものである。エネルギッシュである。それくらいでないと、大学教授すらできないのだそうな。大学教授といってもいろいろあるから、十把一絡げで言ったらアカンですがねぇ~。大学そのもののレベルが違っているのであるから。大学間格差というのは如実にあるからである。

ま、あまりこのことは書かないことにする。危ないからである。クワバラ・クワバラである。

なにか他人の目を意識して勉強していちゃいけない。他者評価というやつである。評価が欲しくて学ぶってぇのは、生涯学習ごっこには似合っていない。

趣味である。

趣味でやっている以上、焦ることはまったくないのである。成果もあげられなかったら、そりゃそれでいいではないか。今更である。今更なにかになろうとしたって、誰も相手にしてくれないからである。

便所の落書きである。ボキのゴミ論文は。それもトイレットペーパーにすらならんのだ。

そういう自覚ナシに、どっかで勘違いをしていちゃアカン。

無用のモノは(ボキのこと)、無用に徹すればいいだけである。

台風が来ている。

危険なことには手を出されるな。

危ないことは、命を奪うから。

ボキも、今日はおとなしくしているつもりである。

(^-^)/

 

Bye-bye!

 

コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/