群馬県の小学生がいじめを苦にして自ら命の断つという痛ましい事件があった。
伝わってくる情報から類推するに、学級崩壊状態だったようで、だからこそいじめも歯止めがなくなってしまうのだけど、大人の側にはやれることはあったと思わざるを得ない。
ただし残念ながら、いったん無法地帯になってしまえば、担任にできることはない。
いや、正しい方法を外部に学び、学校や家庭と協力しながら立て直そうという強い意志をもてれば、可能性はある。
でも、ふつうはそういう境地に達することができないから崩壊してしまうとも言える。
崩壊そのものはどの学校にも起こりうることだ。
学級崩壊をさせないための方法を大学では学ばないままに、みな教員になるのだから、担任の先生だけをせめることはできない。
担任が問題を抱え込むことが最も危険で、今回はその例だったのではないか。
今回のように学校があてにならなさそうなことがかいま見えた段階で、親御さんにもやるべきことがあったのではないかとも悔やまれる。
転校するとか、休ませるとか。
いじめられた側が学校に行けないのはおかしい、いじめる側を出席停止にすべきだという感覚をもたれる方も多いだろうが、それは現実的に難しい。
いじめをさらにひどくさせる危険もある。
亡くなった女の子の親御さんは、なんとかがんばってほしいと思いで学校に行かせてたのかもしれない。
いじめに負けない心をもつことは、理想としては大事だ。でも、学校なんて命の危険をおかしてまで行くところじゃない。
ひとたび心のたががはずれた集団は、大人が何を言ったところで改心したりはしない。
よほどの強い力が働かないかぎり、いじめをやめない。
それは決してその小学校のそのクラスの子たちがひどい人間だったということではなく、誰もがそうなりうるということだ。
だから、学校はきちんとした管理しなければならないのだ。
いじめの芽を初期につぶせるような指導と管理の空間がないといけない。
自由にすごせる場所、のびのび遊べる場所なんかであってはいけない。
事件のあと、文科省が実態調査にのりだし、学校はぜったい再発させないと陳謝する。
もう、どうでもいいよね、そんな対応。