金管8重奏、サックス4重奏、ともに銅賞を受賞いたしました。
ご声援、ご協力ありがとうございました。
また、次の本番演奏に向けてがんばっていきます。
しかし間際になると、こうしたい、こうなったらいいな、本番ではできるのでないかという期待をなぜ抱いてしまうのだろう。
本番で100%出すのは、練習で167%できてないとだめとか言ったり思ったりしてるのに、本番直前になると、ひょっとしたら全部うまくいくんじゃね、全部うまくいったら県大行けんじゃね、という邪念をもってしまったことが私自身の反省点である。
やりたいことが全部できたと言い切れないが、本番の演奏が実力であったことはまちがいないと思う。
昨日は、県大会に推薦された10団体のうち、6団体が打楽器アンサンブルといった結果だった。
実際、管楽器のアンサンブルでは、金賞を受賞された3チーム以外には、かなり肉薄できた。
しかし、金賞レベルの学校さんとは厳然たる差が存在し、かんたんに乗り越えられそうにない気がするのも確かだ。
打楽器アンサンブルチームのレベルの高さは素直に認めつつも、管楽器のアンサンブルとは別種のものではないか、同じアンコンというくくりではおかしいのではないかと昨日は感じていた。
バンドとしての演奏にマーチング部門が別種のものとして存在するのだから、打楽器を別枠にしてもいいんじゃないだろうか。
昨日、ステージ係をやりながら、打楽器アンサンブルには音楽以外の要素がきわめて大きいことをしみじみと感じたのだ。
音楽以前に、音を出すための動き、息づかい、楽器の配列、そして特殊な楽器、そういうものの占める割合の大きさ。
昨日にかぎらないのだが、いまや、打楽器アンサンブルの曲自体が、音楽としてのアンサンブルをいい意味でも悪い意味でも越えているのではないかと思う。 その楽器で、そういう叩き方で、そういう音を出す必然性がほんとにあるのか。
ある国のある風景の一場面を表現するには、その国の楽器を、その国の人風に叩かないとだめなのか。
たとえば、ある国のある風景を表現しようとしたとき、その国の民族楽器をもってくるのがてっとりばやい。
でも、それは方向性としては、もともとの音そのものに近い音を求めることであり、本物に一番近い偽物を求めることになりはしまいか。
プレイヤーがオオカミの鳴き声をマネするという、音楽以前に知を感じない曲を聞いたことがあるけど、それと同じではないか。
ある場面のある風景、ある場面のある心情、そういうものを全く別次元の音で表現してはじめて音楽なんじゃないのか。
悲しいのを悲しいと書いたら幼稚園の子の作文になる。
具体的な事実を細かく積み上げて、悲しいと書かなくてもそれが伝わるような文章を小学生には教えたい。
中学生になったら、その経験をベースに詩や小説といった創作で、そういうものを表現させたい。
国語の先生としてはそう思う。
作曲家の先生は、そんな風に思わないのかな。
とりあえず雰囲気だすために、弦で鍵盤をこすっておこう、そんな風につくっただけなんじゃないのと感じてしまう私の感性が低レベルなのだろうか。
(だいたい打楽器アンサンブルなのに弦でこすっていいのか。このレベルが許されてて、バンドの演奏に際に「ディスコっ!!」と叫ぶと失格になるのがよくわからない。)
打楽器アンサンブルを音楽部門とパフォーマンス部門とに分けるのも一つの案だな。
そして音楽部門は使用する楽器を、8種類以内で、値段の総額300万円以内とする。
高い楽器を山ほど使いたいチームは必然的にパフォーマンス部門にまわることになる。
冗談だと思われるだろうが、関係者の方が見られたら意外といい線だと共感していただけるのではないだろうか。
よくよく考えると管楽器に同じ面がある。
そのフレーズってほんとにそんなふうに指回し大会のように書かないといけないの? 高い音がむやみに出ることがそんなにえらいの? と思われる曲はあったから。
管楽器の方も、音楽部門と、曲芸部門に分けてほしい気もする。できれば楽器の値段も。
うちは曲芸の技術は足りないが、音楽にしようとするメンバーの気持ちは一生懸命だった。