昨日書いたネタが「学年だより」にスピンオフした(使い方あってるかな?)。
2学年だより49 経験(2)
「経験的処理可能感」は、当然のことながら経験を積まないと生まれない。
自分がどれくらいやれるのか、またはやれないのかを、学校生活という取り返しのつくことで経験しておくことが大事だ。
大人になって取り返しのつかない何かで、やってみたけどだめだった、大切なものを失いましたとならないためにも、今みんなに必要なのはチャレンジしてみることだ。
勉強でも、部活でも、自分はこの程度だろうと勝手に限界を決めてしまうのが、一番もったいない。
大人になれば、オヤジになれば、ある程度は客観的に自分の限界も見えてくる。
その時点で、おれの限界はここだと決めて、前に進むことをやめると、名実ともに立派なオヤジの仲間入りだ。
年をくってても、チャレンジし続けることができればオヤジ化しない。
通称ほりえもん、堀江貴文氏はこう言う。
~ 僕が本書で定義する「オヤジ」とは、年齢的なものではない。あらゆること 家族との向き合い方や仕事への接し方、服装や体型に至るまで を、より良き方向へ改善しようとすることを放棄してしまった者たちへの表現だ。
彼らは現状にただ不満を持ち、将来に不安を抱えながらも、そこを打開しようという意思すら奮い起こせない。ただ、誰に向けるともなく不平を口にしているだけだ。それを僕は「思考停止状態」と呼ぶ。(堀江貴文『君がオヤジになる前に』徳間書店) ~
端から見ればチャレンジと言えないようなレベルであっても、前に進もう、「より良き方向へ改善しよう」とする気持ちさえあれば、オヤジ化しない。
正直に言うと、今のみんなのなかにも時々、チャレンジする気持ちが薄れてて、オヤジへの道を早くも歩もうとしているように見えることがある。
悪ガキから青春を経ずにオヤジ化していくだけではないかと不安を抱かせる人がいる。
「現状にただ不満を持ち、将来に不安を抱えながらも、そこを打開しようという意思すら奮い起こせない。ただ、誰に向けるともなく不平を口にしている」状態を、しばしば目にするから。
同じ環境で、同じ内容の仕事を与えられたとき、「やりがいを持ってその仕事をやり続けられる人」と、「大きなストレスを抱えてその仕事を投げ出さざるをえない人」との差も、こういう姿勢が原因の一つだろう。
一見自分に納得できないこと、意に沿わないことでも、「きっと自分に役立つはずだ、だからこそ自分に与えられた試練なのだ(=有意味感)」と考え、先々を見通しながら(=全体把握感)、やれるだけやってみようという姿勢で取り組んでいく経験が自分を作っていく。オヤジ化を防ぐ。
堀江氏が小説について語っている部分があって、それが自分の考えとは真逆であるのもおもしろかった。
~ 僕は小説を読むメリットは、あまりない気がする。思考をただ埋めるには、役立つかもしれないが … あれは長すぎる。
小説に書いてある、最も重要なメッセージにたどり着くのに、延々ページをめくり続けなくてはならない。その間の風景描写や、キャラクターの心情の移り変わりがあまりに退屈で … 正直うんざりする。行間を読んで楽しめるほど、僕は気が長くない。 ~
根本的に堀江氏は、小説が必要ない人だと思う。
それは幸せなことだ。
「こんな人生が送りたい」と思ったとき、その実現を信じて努力できる人だから。
たいがいの小説のメッセージは、つまりところ「人生は思うようにはならないよ」であるので、堀江氏のように生きる方には受け入れがたいもののはずだ。
たぶん本当に小説を必要とする人は、メッセージなどいらない。
現実の娑婆をうまく生きられなくて、小説の世界にどっぷりつかることしか自己を保てないから読む。
国語の先生の多くもその一味だ。
ちゃんとした教科が教えられそうにないので、しょうがなく文学の方へすすみ、まともな会社勤めができそうになくて、学校の先生ならぎりぎりやれるかなとの思いで国語教師が生まれる。
一見明るく前向きそうでも、実は内向的で虚勢をはっているだけというのが本当のところなのだ。