4月3日に入学式、その後の歓迎演奏会は弦楽アンサンブル「SEASONS」さんにお願いした。
今年で四回目の来校になるのだが、去年は実施してないので、今の二年生は聴いてないのだった。
入学式の演奏のあと、きっと新二年生たちは楽しんでくれたことだろう。
翌4日は1年生を大講堂に集めてのオリエンテーション、授業の説明やら、自転車の乗り方に関する話など。
朝日新聞の「仕事力」という連載(毎日曜)の4月1日版から、内田樹インタビューが始まっている。
内田樹先生の書き物を読む者は何回も接した内容だが、一般に認められている意見とはいえない。だからこそ先生も繰り返し述べられるわけだが。
~ 「適職」は幻想である。「君、頼むよ」と言われ仕事は始まっていく ~
連載記事は、就職・転職を考えている大学生、若い社会人を対象にしている。
内田先生もそれを念頭におき、とくに大学で行われているキャリア教育に対する疑問を呈されている。
「自分にあった仕事を見つけよう」という進路指導は、高校でも、いや中学校でも普通に行われる。
内田先生の教えに接する前から、そんなのはウソだと漠然と思ってたので、ここ数年は「将来やりたい仕事なんて考えなくていい」と学年集会で話してきた。
~ 仕事の能力については自己評価よりも外部評価の方がだいたい正確です。頼まれたということは外部から「できる」と判断されたということであり、その判断の方が自己評価よりも当てになる。
「キャリアのドアにはドアノブがついていない」というのが僕の持論です。キャリアのドアは自分で開けるものではありません。向こうから開くのを待つものです。そして、ドアが開いたら、ためらわずそこの踏み込む。 ~
ここにある教えは、「自分の人生は自分で切り開こう」という通常耳にするものとは正反対だ。
でも大人の目で見ると、まあそれが現実だなと思う人の方が多いだろう。
なので、「今みんなが何らかの道に進みたいと思ったとする。それを目指して勉強し、仮に望みどおりの」て大学に入ったとしよう。いざ就職活動をしようとするにあたり、自分の考えていたようにはいかないのが普通だという現実に、文系の人はほぼ全員直面するよ」という話を、文系理系選択説明会みたいな時にはする。
そして「やりたいことなんて見つけなくていい。むしろ今のみんなの知識で想像する既成の職業なんて目標にしない方がいい。とにかく今は力をつけよう」と続ける。
「そのこと」がほんとに「やりたいこと」であれば、資料を調べたりせずとも、自然にやってしまうものだ。
いろいろ調べてみた結果、自分には野球が合っていると判断し、その結果野球を始めたのがイチロー選手ではない。
適性検査を受けて「あなたは音楽があっています」というデータをもらって音楽を始めたのが佐渡裕ではない。
寺川綾さんは、物心ついた時には泳いでいたはずだ。
もちろん親がやらせたからだとは言えるけど、もしそれがやりたいことでなかったなら、続かないし、あのレベルに達するものではない。
いろいろ調べている結果、たまたま「何か」に巡りあうことはある。
たまたま「やってみれば」と言われて、いつの間にかどっぷり漬かってしまうこともある。
人生のいろんな局面で、「たまたま」でも「強制的」にでも、出会ったことをやりたいことにしてしまった人を、やりたいことをやってる人と言うのではないか。
やりたいことが見つからない、何をやっていいかわかんないというのではなく、たまたま目の前にあることをやってしまうことが大事なのだ。
こういう主旨のことも、学年のオリエンテーションで言おうかと思ってたが、あいさつ、身なり、ゴミの捨て方とか、なぜそれが大事かと説明しながら話してたら、持ち時間は終わってしまった。
また時間をかけてじっくり話していこうと思う。