学年だより「レッツ・チャット(2)」
石川県立明和養護学校(特別支援学校)に勤務する山元加津子さんは、文筆活動や、講演活動などを通じて、子ども達の様子を伝え、理解してしてもらう活動を続けている。
その活動をサポートしていた同僚の宮田俊也さんが、脳幹出血で倒れたのが平成21年だった。
脳幹出血は、およそ8割の方が亡くなり、意識がもどるのは100人のうち4人という深刻な病気だ。宮田さんの場合は出血の度合いも大きく、かりに命をつなぎとめたとしても、意識がもどることはないと診断された。
それでも、回復を信じて、家族の方とともに看病を続ける。倒れて八日目に宮田さんの目が開く。お医者さんからは反射による動きと説明があったが、山元さんがのぞき込んで話しかけると、目の奥の光が何かちがったように感じた。
宮田さんには意識があるに違いないと感じた山元さんは、なんとかしてそれを感じようとする。
指でもいい、頬の動きでもいい、どこか一箇所でも反応してくれるところはないかと祈りながら言葉をかけ続ける。お互いがあきらめなかったせいであろう、宮田さんの頭が、指がかすかに動くようになったのだ。職業柄、意思伝達装置というものがあることを知っていた山元さんは、その一つである「レッツ・チャット」を宮田さんにつなぎ、彼の思いを知ることができるようになった。
一般にはもちろん、医療関係者の中にも、意思伝達装置の存在が知られているとは言い難い。
そのため、意識がありながら伝えることができない状態のままの患者さんがたくさんいる。
山元さんは、メルマガ「宮ぷーこころの架橋ぷろじぇくと」や講演会などを通じて、宮田さんの思いを伝え、意思伝達装置の存在を多くの人に知ってほしいという活動を続けている。
そこで紹介されていた「まあくん」の言葉を紹介しておきたい。
サッカー大好き少年だった「まあくん」が脳幹出血で倒れたのは小学校3年生の時だった。
再起不能と言われ、意識はもどらないという周囲の言葉を、まあくんは耳にする。
この子に意識はあると言い続けたのは、たった一人お母さんだけだった。
~ 母が信じるのをやめた瞬間、僕はこの世の中で、全くひとりぼっちになるのではないかという恐怖が、その頃は自分を襲っていました。 …
そういうふうにして僕は、ひとりで苦しみと闘っていましたが、当時はやはりまだ、自分は苦しみの意味はよくわかっていなくて、なんとかしてこの苦しみから抜け出したいという気持ちでいっぱいでしたが、いまはこの苦しみの意味を問い直して、僕にできることはなんなのかを考えるようになり始めています。この苦しみは、いまは苦しみではなくて、この状況という言い方をしたほうがよくて、いまはもう苦しみではくて、もっと自由にはなりたいけれど、不自由ではあるけれど、苦しみの状態はなくなりました。
… 今はこの状態を一歩でも前に進めるためのリハビリだから、今のこの状態をとても肯定しているのですが、この状態に留まることも、またひとつの僕の人生の否定になるような気がするので、この人生をきちんとしたものにするためには、やはり前に歩み続けるしかないのだというのが、今の気持ちです。 (「宮ぷー こころの架橋ぷろじぇくと」ブログ ) ~