1 迷い子になった。
2 僕が六歳か七歳の時だったと思う。母とふたりで買いものに出掛けた帰り途(みち)。乗り慣れた東武東上線の電車の中での出来事だった。車窓の風景を見るのが何より好きだった僕は、座っている母から少し離れたドアの前に立ち、夕暮れの街並みを目で追っていた。風景が止まり、又動き出す、その繰り返しに夢中になっていた僕は視界から遠ざかっていく「下赤塚」という駅名に気付いて凍りついた。それは僕たちが降りるはずの駅だった。あわてて車内を振り返ったが、母の姿は既にそこには無かった。あとになってわかったことだが、乗降客の波に一瞬僕を見失った母は、下赤塚で降りた別の少年を僕と見間違い、改札の外まで追い掛けてしまったらしい。
3 次の駅で降りれば、そこから家までは小学校の通学路だ。ひとりでもなんとか家に辿(たど)り着けるだろう。母はそう考えて、そのまま家へ戻り、夕飯を作りながら僕の帰りを待つことにしたようだ。しかし、車内に残された僕がそのことに気付いたのは、既に電車が次の駅を通過した後だった。その二度目の失敗に余程動揺したのだろう、僕は会社帰りのサラリーマンでほぼ座席の埋まった車内をウロウロと歩き始めた。
4 (どうしようどうしよう)じっとしていることに耐えられず、僕は途方に暮れてただ右往左往を繰り返した。その時の、僕の背負い込んだ不幸には何の関心も示さない乗客たちの姿が強く印象に残っている。それはぞっとするくらい冷たい風景だった。〈 アその風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた。 〉そのまま放って置いたら、終点の池袋まで連れて行かれてしまったと思うのだが、途中でひと組の母娘(おやこ)が僕に声を掛けてくれたらしい。らしい、というのはその瞬間は僕の記憶からはスッポリと抜け落ちてしまっているからだ。
是枝監督の映画の一場面を思い浮かべるようなオープニングですね。「僕」は「奇跡」に出ていた時の前田前田の弟くん、「母」は「海よりもまだ深く」の真木よう子さんのイメージで読んでみましょうか。
体験が描かれるパーツは、小説と同じように読んでいきます。
事件が起きる、主人公が心を動かされ、なんらかの行動をする。
「ふられて、悲しくて、泣いた。」「勝って、うれしくて、叫んだ。」という基本構造をまず把握しましょう。
事件や出来事は描写されますが、そこでどんな心情を抱いたのか、どんな感情がこみ上げてきたのか、直接書かれないことも多いです。
全部書くと説明文になってしまうからです。
描写される行動やセリフをもとに、どんな心情なのか説明しなさいと問うのが、小説の問題です。
随筆、エッセイでは、その心情自体をさらに説明することが求められます。
「それはどういうことか」という設問になります。
~ 迷い子(読み方は「まいご」でいいと思います)になった。 ~
端的に状況が述べられ、つづいて具体的な説明です。
~ 風景が止まり、又動き出す、その繰り返しに夢中になっていた僕は視界から遠ざかっていく「下赤塚」という駅名に気付いて凍りついた。それは僕たちが降りるはずの駅だった。 ~
東武東上線の各駅停車池袋行きですね。是枝監督は東武練馬と下赤塚の間ぐらいに実家があったと話してました。
Q「凍りついた」のはなぜか? という問いも作れますね。
A 自分が降りるはずの駅で降りていないことに気づき、驚きととまどいで身動きできなかったから。
次の駅で降りればいいのかと我に返ったときには、もうドアが閉まっている。
~ その二度目の失敗に余程動揺したのだろう、僕は会社帰りのサラリーマンでほぼ座席の埋まった車内をウロウロと歩き始めた。
(どうしようどうしよう)じっとしていることに耐えられず、僕は途方に暮れてただ右往左往を繰り返した。その時の、僕の背負い込んだ不幸には何の関心も示さない乗客たちの姿が強く印象に残っている。それはぞっとするくらい冷たい風景だった。〈 アその風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた。 〉 ~
事件 二度の失敗
↓
心情 動揺
↓
行動 車内をウロウロする
↓
事件 何の関心も示さない乗客に気づく
↓
心情 不安が高まる
一 「その風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。
小説だったら、この段階で答えを創ってしまえばいいですが、随筆の場合は、説明してくれる部分が見つかります。
「具体」が「抽象」に変わる部分まで読み進めてから、答えをつくった方がいいでしょう。
7段落まで読み進めると、こうあります。
~ 迷い子になったときにその子供を襲う不安は、両親を見失ったというような単純なものでは恐らくない。それは、僕のことなど誰も知ることのない「世界」と、そしてその無関心と、否応なく直面させられるという大きな戸惑いである。その疎外感の体験が少年を恐怖の底につき落とすのだろう。 ~
ここは使えますね。つまり、具体が抽象化された部分です。
「迷い子」の体験とは、たんに親からはぐれた不安だけではない、その結果他者と対峙せざるを得なくなった感覚が、迷子の子どもをより不安にさせる、というのです。
傍線部ア「その風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた」と対応しますね。
「無関心」「疎外感」のような抽象的な言葉は、評論文でももちろん大事ですが、柔らかめの文章を読み解くときにはなお大事です。
こういう言葉が本文にないときは、自分でい思いついて使えないといけません。
「なんとか感」という言葉はとくに大事です。ふだんから意識的に使って、語彙力をつけましょう。
「疎外感」「安心感」「厭世観」「既視感」「距離感」「孤独感」「罪悪感」「閉塞感」「親近感」「喪失感」「不信感」「劣等感」……。
心情を記述する問題でよくわからないときは、とりあえず「漠然とした閉塞感」とか書いておくと、部分点もらえます。
(一の解答例)
迷子の自分に全く無関心な乗客に囲まれている疎外感は、母とはぐれた不安感をますます大きなものにしたということ。
2 僕が六歳か七歳の時だったと思う。母とふたりで買いものに出掛けた帰り途(みち)。乗り慣れた東武東上線の電車の中での出来事だった。車窓の風景を見るのが何より好きだった僕は、座っている母から少し離れたドアの前に立ち、夕暮れの街並みを目で追っていた。風景が止まり、又動き出す、その繰り返しに夢中になっていた僕は視界から遠ざかっていく「下赤塚」という駅名に気付いて凍りついた。それは僕たちが降りるはずの駅だった。あわてて車内を振り返ったが、母の姿は既にそこには無かった。あとになってわかったことだが、乗降客の波に一瞬僕を見失った母は、下赤塚で降りた別の少年を僕と見間違い、改札の外まで追い掛けてしまったらしい。
3 次の駅で降りれば、そこから家までは小学校の通学路だ。ひとりでもなんとか家に辿(たど)り着けるだろう。母はそう考えて、そのまま家へ戻り、夕飯を作りながら僕の帰りを待つことにしたようだ。しかし、車内に残された僕がそのことに気付いたのは、既に電車が次の駅を通過した後だった。その二度目の失敗に余程動揺したのだろう、僕は会社帰りのサラリーマンでほぼ座席の埋まった車内をウロウロと歩き始めた。
4 (どうしようどうしよう)じっとしていることに耐えられず、僕は途方に暮れてただ右往左往を繰り返した。その時の、僕の背負い込んだ不幸には何の関心も示さない乗客たちの姿が強く印象に残っている。それはぞっとするくらい冷たい風景だった。〈 アその風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた。 〉そのまま放って置いたら、終点の池袋まで連れて行かれてしまったと思うのだが、途中でひと組の母娘(おやこ)が僕に声を掛けてくれたらしい。らしい、というのはその瞬間は僕の記憶からはスッポリと抜け落ちてしまっているからだ。
是枝監督の映画の一場面を思い浮かべるようなオープニングですね。「僕」は「奇跡」に出ていた時の前田前田の弟くん、「母」は「海よりもまだ深く」の真木よう子さんのイメージで読んでみましょうか。
体験が描かれるパーツは、小説と同じように読んでいきます。
事件が起きる、主人公が心を動かされ、なんらかの行動をする。
「ふられて、悲しくて、泣いた。」「勝って、うれしくて、叫んだ。」という基本構造をまず把握しましょう。
事件や出来事は描写されますが、そこでどんな心情を抱いたのか、どんな感情がこみ上げてきたのか、直接書かれないことも多いです。
全部書くと説明文になってしまうからです。
描写される行動やセリフをもとに、どんな心情なのか説明しなさいと問うのが、小説の問題です。
随筆、エッセイでは、その心情自体をさらに説明することが求められます。
「それはどういうことか」という設問になります。
~ 迷い子(読み方は「まいご」でいいと思います)になった。 ~
端的に状況が述べられ、つづいて具体的な説明です。
~ 風景が止まり、又動き出す、その繰り返しに夢中になっていた僕は視界から遠ざかっていく「下赤塚」という駅名に気付いて凍りついた。それは僕たちが降りるはずの駅だった。 ~
東武東上線の各駅停車池袋行きですね。是枝監督は東武練馬と下赤塚の間ぐらいに実家があったと話してました。
Q「凍りついた」のはなぜか? という問いも作れますね。
A 自分が降りるはずの駅で降りていないことに気づき、驚きととまどいで身動きできなかったから。
次の駅で降りればいいのかと我に返ったときには、もうドアが閉まっている。
~ その二度目の失敗に余程動揺したのだろう、僕は会社帰りのサラリーマンでほぼ座席の埋まった車内をウロウロと歩き始めた。
(どうしようどうしよう)じっとしていることに耐えられず、僕は途方に暮れてただ右往左往を繰り返した。その時の、僕の背負い込んだ不幸には何の関心も示さない乗客たちの姿が強く印象に残っている。それはぞっとするくらい冷たい風景だった。〈 アその風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた。 〉 ~
事件 二度の失敗
↓
心情 動揺
↓
行動 車内をウロウロする
↓
事件 何の関心も示さない乗客に気づく
↓
心情 不安が高まる
一 「その風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた」(傍線部ア)とあるが、どういうことか、説明せよ。
小説だったら、この段階で答えを創ってしまえばいいですが、随筆の場合は、説明してくれる部分が見つかります。
「具体」が「抽象」に変わる部分まで読み進めてから、答えをつくった方がいいでしょう。
7段落まで読み進めると、こうあります。
~ 迷い子になったときにその子供を襲う不安は、両親を見失ったというような単純なものでは恐らくない。それは、僕のことなど誰も知ることのない「世界」と、そしてその無関心と、否応なく直面させられるという大きな戸惑いである。その疎外感の体験が少年を恐怖の底につき落とすのだろう。 ~
ここは使えますね。つまり、具体が抽象化された部分です。
「迷い子」の体験とは、たんに親からはぐれた不安だけではない、その結果他者と対峙せざるを得なくなった感覚が、迷子の子どもをより不安にさせる、というのです。
傍線部ア「その風景の、僕との無縁さが不安を一層加速させた」と対応しますね。
「無関心」「疎外感」のような抽象的な言葉は、評論文でももちろん大事ですが、柔らかめの文章を読み解くときにはなお大事です。
こういう言葉が本文にないときは、自分でい思いついて使えないといけません。
「なんとか感」という言葉はとくに大事です。ふだんから意識的に使って、語彙力をつけましょう。
「疎外感」「安心感」「厭世観」「既視感」「距離感」「孤独感」「罪悪感」「閉塞感」「親近感」「喪失感」「不信感」「劣等感」……。
心情を記述する問題でよくわからないときは、とりあえず「漠然とした閉塞感」とか書いておくと、部分点もらえます。
(一の解答例)
迷子の自分に全く無関心な乗客に囲まれている疎外感は、母とはぐれた不安感をますます大きなものにしたということ。