~ 推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわあず、それは一晩で急速に炎上した。寝苦しい日だった。虫の知らせというのか、自然に目が覚め、時間を確認しようと携帯をひらく。とSNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が〈真幸くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。腿の裏に寝汗をかいていた。ネットニュースを確認したあとは、タオルケットのめくれ落ちたベッドの上で居竦まるよりほかなく、拡散され燃え広がるのを眺めながら推しの現状だけが気がかりだった。 ~
「推しが燃えた」――。
たった2文節で書かれた冒頭の一文。
この6文字で、これほど多くの情報量を持つ文は、そうそうない。
「メロスは激怒した」「山椒魚は悲しんだ」に勝るとも劣らない書き出し。
もう、この一文で芥川賞は決まりだったろう。
「サックスが壊れた」「講習参加者は一人だった」「体脂肪が増えた」……、だめだ芥川賞とれない。
「推し」。最も応援するメンバー、一番好きな人、かけがえのない存在、……。「推し」と言いながら、決して他人に推したいわけではない(たぶん)。
「推す」側の人達はなんていうんだろ。やはり「おっかけ」かな。
「ファン」でも「サポーター」でも「谷町」でも言い換えられない。「信者」だと大分近いかな。
「推し」に比べると「おっかけ」は相当昔からある言葉だが、質は変わっている。
どう変わったのかは、作品を読むと胸をえぐられるくらいに伝わってくる。
~ 世間には、友達とか恋人とか知り合いとか家族とか関係性がたくさんあって、それらは互いに作用しながら日々微細に動いていく。常に平等で相互的な関係を目指している人たちは、そのバランスが崩れた一方的な関係性を不健康だと言う。脈ないのに想い続けても無駄だよとかどうしてあんな友達の面倒見てるのとか。見返りを求めているわげでもないのに、勝手にみじめだと言われるとうんざりする。わたしは推しの存在を愛でること自体が幸せなわけで、それはそれで成立するんだからとやかく言わないでほしい。お互いがお互いを思う関係性を推しと結びたいわけじゃない。たぶん今のあたしを見てもらおうとか受け入れてもらおうとかそういうふうに思ってないからなんだろう。推しが実際あたしを友好的に見てくれるかなんてわからないし、あたしだって、推しの近くにずっといて楽しいかと言われればまた別な気がする。もちろん、握手会で数秒言葉をかわすのなら爆発するほどテンション上がるけど。 ~
日本全国のライブに出かけ、グッズもすべて購入し、同じCDを何十枚も買い、マスメディアやSNSはもれなくチェックする。
自分が支えている気分になれるが、それをおしつけがましくアピールしたいなどとは思わない。
むしろ支えさせてくれてありがとうという感覚。
表面的、物理的には何の見返りもないこの関係性は、客観的にみれば変なのかもしれない。
~ 携帯やテレビ画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりのある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。何より、推しを推すとき、あたしというすべてを懸けてのめり込むとき、一方的ではあるけれどあたしはいつになく満ち足りている。 ~
国語の授業でしょっちゅう教えている話題だが、近代的価値観は、前近代的な人のつながりを否定する。
地縁、血縁、身分制、封建制、ムラ社会といったシステム内で成立している人間関係を、「しがらみ」「かせ」「桎梏」「ほだし」とよび、批判的にとらえる。
自分がおかれているコンテクストよりも個が大事、自分そのものに価値があり、自分のために自分の人生を送ることに価値がある……と考えるのが近代的なものの考え方だ。
西洋からこの考え方が入ってきて、日本人がとびついて、すばらしい、これこそ真実だと喜んだ。
そして追い求めた。西洋にはキリスト経という絶対的なコンテクストがあることを忘れて。
とくに純粋な若者達は、純粋であるがゆえに、学校で教わったとおりに生きようとして、思うようにならなくて悩み苦しむこととなる。
前近代的なコンテクストを失って現代社会に浮遊し、自分の足下があまりに不安定なことに気づき、何かすがりつきたいものを探す。
田舎の人間関係を逃れて都会に出てきた若者が、気がつくと大学や職場の人間関係にがんじがらめになっているのは珍しいことではない。
ワーカホリックも、オタクも、自分を存在をかけて対象とのつながりを感じようとする点では同じかもしれない。
もしかすると、そうすることでしか、人は生きていけないのかもしれない。
~ あたしは徐々に、自分の肉体をわざと追い詰め削ぎ取ることに躍起になっている自分、きつさを追い求めている自分を感じ始めた。体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある。つらさと引き換えに何かに注ぎ込み続けるうち、そこに自分の存在価値があるという気がしてくる。ネタがそうあるわけでもないのにブログを毎日更新した。全体の閲覧は増えたけど、ひとつひとつの記事に対する閲覧は減る。SNSを見るのさえ億劫になってログアウトする。閲覧数なんかいらない、あたしは推しを、きちんと推せばいい。 ~
自分の存在価値を見出すために自分以外のものにすがるしかないという逆説。
まんま入試に使えそうなテーマだ。
やばいくらいオタクな女の子の話なのに、現代を見事に照射する。いままでに読んだ芥川賞の作品をいくつか思い起こしてみても、ダントツの面白さだ。ぜひ書店へ。