水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

弱者の戦略(2)

2020年08月13日 | 学年だよりなど
  3学年だより「弱者の戦略(2)」


 笠見未央氏(US塾主宰、著書『センター前ヒット』etc)が、自宅浪人で早稲田大学を目指していた時、勉強の唯一の指標は過去問だった。過去問を解き、出題の形式や傾向を知る。自分の足りない部分を見つけ、それを必要な分だけ補っていく。


~ 弱者が合格最低点をGETするには、敵を知らなければならない。
 長嶋茂雄が監督をやっていた頃の巨人軍は、他球団から4番打者を集め、最強の布陣をとっていた。その巨人軍に勝つために、相手の弱点を徹底的に分析する「ID野球」という弱者の戦法をとったのは、野村克也監督率いるヤクルトだった。
 野村監督と古田敦也捕手は、相手を裸にするためにミーティングやビデオ分析を重ね、巨人と互角以上の戦いを進めた。過去問中心主義は、弱者のゲリラ戦法である。敵の分析こそが命だ。
 偏差値は過度に信じないほうがいい。イチローはシーズン目標を打率重視の「首位打者」ではなく「200本安打」に置いていた。「首位打者」はつねに他人の成績を気にしなければならないが、逆に「200本安打」は数字の積み重ね、自分との戦いで、「首位打者」よりは安定した目標になる。打率は下がるが、安打数は減らない。
 偏差値は他の受験者の動向に左右される数値である。受験生も、偏差値が基準になる模試の判定に左右されていては、精神が参ってしまう。「過去問で合格最低点を確実に取る」というシンプルな目標は、受験生に安心感をもたらす。 (笠見未央『難関私大・文系をめざせ! 偏差値どん底からの「早慶・GMARCH・関関同立」突破大作戦』高陵社書店) ~


 特殊な状況下で実施された今年の模試は、例年と比べて受験者数は半分以下で、その質もちがっていた。その結果、なかなか高偏差値が出にくい状況だった。
 もちろん模試の偏差値が重要な目安であることは間違いないが、今年にかぎってはかなり慎重にとらえるべきだろう。
 映画「コンフィデンスマンJP プリンセス編」の冒頭で、ヘミングウェイの言葉が引用される。

~ 他人より優れていることが高貴なのではない。
  本当の高貴とは、過去の自分自身より優れていることにある。(Ernest Miller Hemingway)~

 第一に考えるべきなのは、他人との比較ではなく、自分との戦いに勝利することだ。
 反復学習で脳そのものを改良し、志望校の問題に応じた対策をとる。
 筋力や技を身につけて身体を改良し、試合に勝つための戦略を練る。
 勉強と運動とは、ほぼ同じ作業といえるのではないだろうか。
 当然、何の競技に出場するか、どんな相手と闘うかで、トレーニングの方法や内容は変わる。
 大谷翔平選手のような身体と運動能力をもっていれば、おそらくどんな競技でも一流になれるだろうが、われわれは何百年に一人の逸材ではない。
 「ぎりぎり」勝つための戦略が要る。戦略を実践するのは、受験においては自分だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埼玉県高等学校吹奏楽演奏会2020

2020年08月09日 | 日々のあれこれ
 会場 さいたま市文化センター
 日時 8月9日5番
 曲目 ミュージカル「レミゼラブル」より
    熱帯JAZZ楽団ver「セプテンバー」

 目の前の客席にお客さんはいなくても、
 どの団体の演奏も、届けたい人のことを思い浮かべ、
 演奏できることへの感謝の思いがこめられた、あたたかいものでした。
 うちもいい感じだったと思います!
 舞台袖で手拍子してくださった役員の先生、伊奈学園のみなさん、ありがとうございます!
 保護者のみなさま、17日をお楽しみに!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弱者の戦略

2020年08月09日 | 学年だよりなど
  3学年だより「弱者の戦略」


 「本番に強い人」という言い方がある。
 傍からそう見えても、言われた当人は特別自分が「本番に強い」とは感じていない。
 その人にとっては、本番の出来は意外ではなく、自分なりに手応えを感じていたはずだ。
 または、自分は本番に弱いと恐れていて徹底して準備してきた結果かも知れない。
 ものすごくがんばって、大変な努力をして手に入れた結果でも、他人は「運がいい」とか、「本番にだけ強い」と評するものだ。
 たしかに、正しい努力をし続ける人は、準備の段階では結果が出ていないことは多い。
 むしろ本番の前段階では、きちんと失敗しておいて、自分の弱点を出し切る必要があるからだ。
 自分の失敗を客観化することで、「上から目線」でミスを見ることできる。
 できの悪かった模試は、自分の弱点をはっきりと示してくれる宝物だ。
 弱点を補っていきさえすれば、本番では同じミスをしない。
 ただし当たり前の話だが、模試は入試ではない。
 最終目標は模試でいい判定を出すことではなく、志望校の合格最低点をクリアすることだ。
 入試の結果と模試の偏差値は、もちろん相関はあるが、そのままにはならない。
 「安全校」にことごとく落ちて、第一志望「だけ」受かる例は普通にある。
 過去問を解いてみて、同じラインの問題で6割~7割の点数をとるには、何をどうすればいいかという戦略を立てられるかどうかだ。


~ たとえば早稲田の文系学部を受験するなら、6割5分から7割得点できれば合格できる。早稲田の文系学部を狙うなら、赤本を解き、厳しく自己採点し、間違い直しを厳密にすればよい。4割が4割5分、4割5分が5割と、波があるのは仕方ないが着実に点数は上がってゆく。敵は他の受験生ではない。入試問題なのだ。偏差値より合格最低点を気にしよう。
 過去問は受験生の弱点をあぶりだす。足つぼマッサージが内臓の悪い部分を教えるように、過去問はウィークポイントをクッキリ明確にする。英語のイディオムが弱ければ補強すればよいし、日本史の戦後史が弱ければ、歴代内閣ごとに詳細な年表を作ってみればよい。
 憧れの早稲田大学という背広を着こなせる体型を作りあげるために、過去問を解いて、無駄な贅肉を削ぎ落とす作業を続ければ合格できる。過去問を解けば、早稲田の問題という背広に、自分の身体がフィットしてゆく過程が体感できる。そのうち早稲田の問題が、自分の体型に合わせて作られたオーダーメードの背広のように思えるはずだ。 (笠見未央『難関私大・文系をめざせ!』高陵社書店)
 ~


 どんな問題が出ても対応出来るほどの圧倒的な力を持つ人であれば、特別な志望校対策を必要としない。しかし実際には、そんな人はいない。楽勝でいい成績をとっているように見える人は、とんでもなくやっている。楽勝に見えるのはステージが違いすぎるからだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月の演奏予定

2020年08月09日 | 日々のあれこれ
8月の演奏予定(7月30日現在)

 8月9日(日) 「埼玉県高等学校吹奏楽演奏会2020」@さいたま市文化センター
  無観客での演奏会です。二日間にわかれて県内の高校31団体が演奏します。

 8月17日(月) 「和光国際高校定期演奏会」@和光市文化会館サンアゼリア
  夜の部の第二部ステージでゲスト出演します。ご家族の方にご来場いただけます。

 大々的にみなさまをお誘いできる形になかなかなりませんが、がんばって練習しています。
 今しばらくお待ちください!!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世界の片隅に(3)

2020年08月06日 | 学年だよりなど
  3学年だより「この世界の片隅に(3)」


 「ねえ、すずちゃん、広島に帰っておいでや」見舞いに来た妹のすみが言う。
 晴美のことだけではなく、周作との間に子どもができないこと、夫に好きな人がいたと知ったこと、右手を失っていろいろな家事ができなくなったこと……。
 いろんなことが頭の中をうずまいていた。この時点で、広島は空襲に遭ってなかった。
 実家に帰ろうと決めたその日、おねえさんがすずの髪をすいてくれる。8月6日。
 「この間は、あんたのせいにして悪かったね。
  あんたが、ここにいたいなら、居ってええんやで、ここはあんたの居場所じゃ」
 そのとき、空がふわっと光る。8時15分。
 「いま、なんか光ったね?」「かみなりじゃろか、いい天気なのに」
 「あのー、やっぱりここに居らしてもらえますか……」
 突然、激しい地響きがおこる。地震か?
 外へ飛び出すと、みたことのない、大きな雲。
 あわててラジオをつけるが、雑音ばかりが鳴っている。すずの実家に電話も通じない。
 庭に飛来した回覧板には広島の町内会名が書いてある。障子や金づちまでが呉に飛んできた。
 8月15日。正午に大事な中継があるので、ラジオをつけるようにとの回覧板が回ってくる。
 「タエガタキヲタエ……シノビガタキヲシノビ……」と初めて耳にする声。
 「これは、負けたってことかね……」
 「……じゃろうのう……」「は――、終わった終わった」
 「広島と長崎に新型爆弾も落とされたしの」「ソ連も参戦したし、まあかなわんわ」


~ 「そんなん覚悟のうえじゃないんかね? 最後のひとりまで戦うんじゃなかったかね?
 いまここにまだ5人もいるのに! まだ左手も両足も残っとるのに!!
 うちはこんなん納得できん!!!」   (こうの史代『この世界の片隅に(下)』双葉社) ~


 原作を見ても、この作品のなかで、すずが唯一感情をぶつけるシーンだ。
映画の最後は、広島の街。瓦礫の中を夫と歩いている。
「すず、おまえと一緒になれてほんとうによかった」
「この世界の片隅に、うちを見つけてくれて、ありがとう、周作さん……」
 すずが落とした太巻きを、小さな女の子が拾う。そのそばには、母親の遺体が放置されている。「いいよ、それ食べてええよ」
 食べ終わっても、すずにすがりついて離れない女の子を、二人は呉に連れて帰る。
 呉の町の景色。街灯がともり始める。画面のはじの方に花も咲いている。平和へのかすかな希望が象徴されている。長いエンドロール。クラウドファウンディングに協力した人達の名前がえんえんと続くからだ。最後に、ふわっと映る手が観客に手を振る。すずの失われた右手だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世界の片隅に(2)

2020年08月04日 | 学年だよりなど
  3学年だより「この世界の片隅に(2)」


 昭和18年、18歳のすずは呉の北条家に嫁いでいく。すずの声は、のん(能年玲奈)が演じた。 
 のんびりした性格で、きびしい暮らしの中でも明るさを失わないすずを見事に演じている。
 そんなすずも、さすがに気苦労は絶えない。夫周作の母親は病気で伏せりがちだった。
昭和19年。東京へ嫁いでいた義姉の径子が実家にもどってくる。
 昭和20年、呉に空襲がはじまる。空襲警報が発令されると、防空壕へ退避するのだが、警報だけで敵機はこないという場合もある。度重なる警報に、人々の疲労感が蓄積されていく。
 義姉の娘の晴美は、すずによく懐いていた。
 二人で、入院している父親のお見舞いに行った帰り、空襲にあう。
 6月23日午前、B29約180機が呉工廠を壊滅させ、およそ400人の命を奪った大規模なものだった。
 防空壕に退避して助かった二人。晴美の左手と自分の右手をつなぎ、家に帰ろうとし、道ばたの不発弾に気づく。
 「不発弾は時限爆弾の可能性もあるけ、気いつけえ」と聞いたことが頭をよぎる。
 「危ない、こっちへ!」晴美の手を強くひっぱって、そこで記憶がとだえている。


 ~ 昨日 ない事を思い知った右手
  6月には 晴美さんとつないだ右手
  5月には 周作さんの寝顔を描いた右手
  4月には テルさんの紅を握りしめた右手
  3月には 久夫さんの教科書を書き写した右手
  2月には 鬼いちゃんの脳みそを拾い上げた右手
  1月には カルタを取りまくった右手
  去年の12月には 水原さんの手を握った右手
  去年の11月には おねえさんの着物を裁ち間違えた右手
  去年の10月には 震えながら引き出しを開けた右手
  去年の9月には 周作さんをばしばし叩いた右手
  去年の8月には リンさんにすいかを描いた右手
  去年の7月には 利根と日向と憲兵さんに出会った右手
  去年の6月には こまつなのタネをのせた右手
  去年の5月には 楠木公に驚愕して箸を落とした右手
  去年の4月には たんぽぽの綿毛を摘んだ右手
  去年の3月には ふるさとを描きとめた右手
  去年の2月には 初めて周作さんに触った右手
  一昨年の暮れには 海苔すきが大好きだった右手
  7年前の二月には うさぎをいくつも描いた右手
  10年前の8月には すみちゃんのために砂にお母ちゃんを描いた右手 ~


 「…あんたがついて居りながら…」
 「…………ごめんなさい」
 「人殺し! 返して! 晴美を返して!!」
 「やめえ径子」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

この世界の片隅に

2020年08月01日 | 学年だよりなど
  3学年だより「この世界の片隅に」


 2016年に公開された映画「この世界の片隅に」は、こうの史代氏の漫画を原作とする長編アニメーション作品だ。
 監督の片渕須直氏は、映画化するにあたり、クラウドファウンディングでその資金を募った。
集まった資金はおよそ4000万円、商業映画として潤沢とまではいえないが、映画化を期待する人々がいかに多かったかは想像に難くない。
 公開後、徐々に上映館が増えていき、2019年の冬に至るまで記録的なロングラン上映が行われた。
 作品の舞台は広島市と呉市。1930年からの十数年、浦野すずという市井を生きる実在の女性をモデルにしている。
 監督は、当時の資料を集め、何度も現地に足を運び、史実を検証した。
 たとえば、すずと夫の周作が戦艦大和の就航を見たと漫画の場面にある。
 大和の行動記録を調べると、その年呉に入港したのは4月17日だけであることを確認できる。
 日付が特定できれば天候や気候も調べられる。その日の呉の天候は高曇り。
 気温は夕方でも比較的高く、青空ではないが空気が澄んで遠くまで見渡せていたはずだという。
 映画では、ひとつひとつの場面が精密に再現され、その中に登場人物たちが息づいている。
 冒頭で、小学生のすずが、5銭のキャラメルを買うか、10銭のチョコレートを買うか悩むシーンがある。こういう細かいものの値段も、完全に再現されている。
 太平洋戦争が始まる前、そして戦局がすすむにつれて人々がどんな暮らしをしていたかが、完全に再現されているということだ。
 すずは、小さい頃から絵を描くのが好きだった。
 ちっちゃくなるまで鉛筆を大事に使い、ひまさえあればスケッチをしている。
 町外れの小高い丘から、海を見つめて絵を描くのが好きだった。
 昭和13年。小学6年生のある日、鉛筆があまりにも小さくなり、もう描けんと言ったのを水原哲が聞いていた。すずがいつもの場所で絵を描いていると、長い鉛筆を差し出す。
 「ええんか?」
 「兄ちゃんのじゃ。よおけあるけ、おまえにやる」
 海軍兵学校に通っていた哲の兄が、事故で亡くなっていた。
 戦争が近づいていることをそれとなく感じさせるエピソードだ。
 昭和18年。すずに縁談がもちあがる。すずを嫁にほしいと呉に住む人から連絡があったという。
 もちろん、すずが全く知らない人からだったが、当時としては普通のことだ。
 「呉か…。呉言うたら軍港があって、水兵さんがおって…」
 呉の軍港、そして市街地は、昭和20年にはげしい空襲をうけることになる。
 そのとき、海軍の制服をまとった水原哲と久しぶりに再開する。
 「おまえの母ちゃんの声が大きいから、みんな知っとるぞ」
 「(妹の)すみちゃんと間違えとってんかも、すみちゃんの方がきれいなし」
 「…ほうでもない思うがの」
 すずの口の中にキャラメルの味が広がった。
 「困ったねえ、…いやなら断わりゃええ言われても、いやかどうかもわからん人じゃったねえ…」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする