今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

和食の作法1:誤解と問題点

2012年10月02日 | 作法

フランス料理を食べに行く時、テーブルマナーを気にするだろう。
ところが和食を食べる時は、作法は既知のものとして気にしない。
たいていの人は、和食の作法は身に付いていると思っている。
だがそれは、作法ではなく”習慣”だったりする。

そこで作法家の登場である。
なぜこの世に口うるさい作法家がいるのか。
作法は習慣とは異なる、もっと洗練されたものだからだ。
作法家によれば、多くの人の振舞いの”習慣”は作法に叶っていない。

たとえば、食事の前に、「いただきます」と言う時、合掌するのが作法だと思っている人がいるようだ。
とりわけ、NHKをはじめとするテレビ局はそう思い込んでいるフシがあり、
作法家としては食事場面のシーンは目をそらしたくなる。
江戸時代の学者・西川如見によれば、この動作は、農家の風習であって、武家や公家の作法にはない。
作法的には”合掌”は不要である。
軽く上半身を屈して礼をすればよい
(和食作法はそもそも禅寺での作法が根拠なのだが、宗教臭さをそぎ落としているのが特徴なのだ)。
ちなみに、わが家ではずっと作法通りにしており、
合掌する所作は大学時代にはじめて地方出身者がそうするのを目にした。

同様に、漬物でご飯を食べるのも、おかずの少ない農家の風習であり、
作法的には漬物はお茶請けであって、食後の茶の”おかず”だ。
これは室町時代のあちこちの作法書に書いてある
(逆に言えば、当時から漬物でご飯を食べる人がいたらしい)。

ただ、伝統的作法を、そのまま無批判に現代人に適用するのも問題だ。
作法の本質は、”最適性”にあるのだから、現代の知見から最適でないと判断されるなら、
未練なく、作法それ自体を改変すべきだ。
この点が、伝統芸能との違いになる。

和食の作法は、「米」に対する表敬がやたら強く、食事作法も”ご飯”中心である
(合掌こそしないものの、気持ちは同じ)。
作法的にも、おかずはご飯を進めるための添え物にすぎない。
おかずは、二度続けて箸をつけてはならないが、ご飯だけは許される。
そしておかず1→ご飯→おかず2→ご飯→おかず3→ご飯…と、頻度的にもご飯を中心にして食べる。
これでは、炭水化物の過剰摂取になる。

和食は、現代の栄養学からは、必ずしもバランス的に理想的ではなく、
塩分が多すぎ、カルシウムが少なく、糖質も多すぎる。
高血圧でさらに血糖値が気になる私としては、正直、作法通り食べるのがつらい。

もちろん、脂質が多すぎる西洋料理も理想的でない。
作法は慣習ではなく、その時代の理想であるべきだから、
人々を健康にする食べ方こそ作法となってほしい。