77年目の終戦の日を迎えたので、今年93歳になる母に、当時の思い出を尋ねた。
当時、母は生家のある東京を離れて、親戚のいる栃木県に疎開していた。
疎開先の家は、工場経営をしてて裕福で、複数組の家族を受け入れても空間も食料も余裕があったという。
母は、学校での授業がほとんどなく、勤労動員として中島飛行機の工場で飛行機作りをしていた。
年端もいかぬ女学生たちが作った飛行機で大丈夫なのか心配だったという。
15日の当日は、家で玉音放送を聞いたが、何言っているか理解できなかったという。
東京の実家は空襲で焼けたが※、母は疎開中でそれを経験せず、また疎開先の生活も楽で、学校でいじめにもあわず学校生活を楽しんでいたので、「戦争中のつらい経験」というのがなく、また親類で戦死した者もなかった。
※:飼い犬は屋内の土間で死んでいた。飼い猫はどこかに逃げて行った。
ただ、翌日の新聞は、終戦については触れず、相変わらず南方での嘘の戦果を大々的に報じていたのが印象的だったという。
さらに戦後も裕福な田舎に残ったため、食料難も経験しなかったという。
ということで、母自身、戦争のつらい経験の話は、他人事であった。
母は「この世界の片隅に」の”すずさん”よりは1世代下で、黒澤明監督の「一番美しく」(1944年)が描いた世代に等しい。
むしろ母自身は、戦後の破壊された状態から高度成長を経て先進国となったその後の日本の方が、感慨深いという。