本日、土曜出勤をして、卒論指導学生全員の卒論提出にこぎつけた。
指導教員である私がOKを出さないと、学生は卒論を提出できないから。
もちろん、簡単にOKは出さず、幾度もダメ出しをして原稿を突き返した。
といっても”指導”教員なので、どこがおかしいのか、どう直したらいいのか、細かく指導する。
論文のタイトルも、内容を集約していないと思う場合は直させる(いや、私も学生と一緒に腕組みしてぴったりするタイトルを考える)。
実は大学教員として、この卒論指導が最も負荷が高い(大学院生は、自力でどんどん論文を進められる)。
学生にとっても、この指導を受けての卒論執筆こそ、大学生活最大の作業だ(4年生が一番ヒマどころか、一番たいへんなのだ)。
こうして学生は、私という壁に幾度も突き返されながら、その都度修正し、最後には学術論文らしい内容に仕上げる。
そう、学生は人生最初で最後の”学術論文”を書き上げる。
自分一人で、文献を検索し、質問紙(アンケート)を作成し、データを取り、それを統計分析し、結果を解釈して、12000字以上の論文に仕上げる。
ここまでできたことの証(あかし)として、学士の学位が与えられる。
ところが、残念なことに、ほとんどの学生は、卒業後は、論文はもとより、12000字もの原稿を書くこともなくなる。
学術論文を読むこともないだろう。
ましてや、卒論で活用したパソコンを使ってのデータ分析(多変量解析やテキストマイニング)をすることもなかろう。
仕事でこそWordとExcelは使うだろうが、あとはスマホで足りる情報生活(高校生のレベル)に戻りそう。
実にもったいない。
これらの能力が、卒業後に活かされないのは、大学が社会のニーズに合わない無駄な教育をしているからだろうか。
いや、日本社会の方が本来進むべき”高度情報社会”に成熟しようとしないためではないか。
情報の活用レベルが低い旧来の状態に適応させる力の方が強く感じる。
当方でここまで学生を鍛えましたので、どうぞさらに鍛えてください、と社会に送り出したいのに。