高坂(たかさか)は、埼玉県のヘソに位置する東松山の東武東上線で1つ手前の駅(行政的には東松山市)。
ここを名字の地とした高坂氏(秩父平氏の一族)の拠点で、また武蔵七党の児玉党の小代氏の拠点でもあった。
このように武蔵中央部は畠山氏や比企氏など頼朝の鎌倉幕府を支えた武蔵武士の本拠地である。
狭心症の症状もなんとか治まっているので、でも無理は禁物のため、ほとんど平地の高坂の名所を訪ね歩くことにした。
高坂駅の東口に下り立ち、コンビニで昼食用のり巻きを2本調達。
宅地開発されたばかりの住宅街を進んで、土塁が長々と残っている高坂館跡に着く。
そこは高済寺の境内になっていて、土塁のてっぺんに、この寺を菩提寺にした旗本加賀爪氏累代の墓がある〔写真:その下にあるのは家臣一族の墓)。
土塁に上ったりして、境内を散策していると、墓参りに訪れた初老の男性が話しかけてきた。
なんでもこの土塁は昔は杉林だったが、市が木を全て切って土塁を丸見えにしたという。
ついでに私が首から下げていたクラシックなカメラケースを讃めてくれた(中のカメラはライカなのでもっと自慢したかったが)。
そこから南に向って小川沿いの遊歩道を歩く。
この小川にそって湧水がある。
脇のベンチに座って、のり巻きを食べていると、幼児を連れた若い父親が通りすがりに挨拶してくる。
都内ではなかなか経験できない。
小川に沿ってさらに歩き、ため池の所で台地にあがると、世明寿寺に出る。
農村地帯にある寺の風情で、寺を取り囲む壁がなく境内があけっぴろげ。
鐘楼があり、珍しいことに、参拝の最初に鐘を突けと書いてある。
たいていの寺が勝手に鐘を突くなと書いてあるのと正反対。
指示通り、気分良く鐘を突かせてもらい、仁王像のある山門をくぐって、本堂に行く。
ここには南北朝時代作の千手観音像と二十八部衆の像があるのだが、本堂の扉は閉まっている。
中を覗ける隙間があるので覗いてみると、薄明かりの中、金網の奥に本尊とまわりの仏像が見えてくる。
結構いい造りらしいので明るい中で見れないのが残念。
外の石仏群に、凝った造形の如意輪観音像があった(写真:惜しいことに鼻が欠けている)。
ここから一本道を西に向い、無人の高坂神社を過ぎ、踏み切りを渡って駅の西口に達して、バスに乗る。
バスは西の丘陵地帯を上り、「大東文化大学」で降りる。
その先に、公衆トイレがあり、その奥に物見山展望台がある。
標高135mの物見山なら、今の体でも大丈夫。
同じバスに乗ってきた若いOL4人組がピクニックよろしく地面に敷物を敷いて弁当を食べている。
道路の反対側に行くと、雰囲気がぐっと変って、岩殿観音(岩殿山正法寺)の年季の入った観音堂に出る。
本堂脇に立派な大銀杏があるが、あいにく黄葉には早かった。
ただ、あちこちで絵を描いている人がいる。
本尊の金色に光る観音様を拝み、本堂後ろの岩に置かれている観音霊場の石仏を拝む。
鎌倉時代の女性が奉納したという銅鐘は、突いてはいけない(写真は鐘楼から本堂方面)。
ここは正法寺境内の最上部で、ここから石段を降りて、観音札所で御影を買い〔100円)、さらに下って一直線がつづく旧門前町を通り抜ける。
左右に並ぶ家は、門前町のあった昔からの旧家のようで、各家の前に屋号の札がある。
門前町入口をすぎてさらに直進すると、高さ2.6mもの大日如来種子板碑(鎌倉時代作)が墓地の斜面に建っている。
前回の東大和も同じく、武蔵の中世遺跡として板碑が特徴。
そして正面には赤い橋のかかる弁天池がある。
橋を渡った島には小さな弁天堂があり、中を覗くと江戸時代の髪形の弁天様が拝める。
この池は、坂上田村麻呂が悪竜の首を埋めたという伝説があり、それ以来カエルが鳴かなくなったので「鳴かずの池」の別名がある。
民家の前の細い道を進む。
もう、住民とすれ違う時は私から挨拶する。
足利基氏の塁跡(堀が2箇所ほど残っている)を最後に、バス停に向う。
徒歩での名所巡りには、細かい名所と人が通れるだけの細い道が載っているGoogleマップが最適だが、残念なことにバス停が載っていない。
バス停が載っているYahoo!MAPに切り替える(こちらは車道しかない)。
幸い5分ほどの待ちでバスが来た。
高坂駅に着いて、すぐに電車に乗らず、もう一軒立ち寄る所がある。
埼玉だと、駅前にたいてい「ぎょうざの満州」がある。
そこで餃子をつまみにグラスビールを飲むのが、埼玉歩きの”締め”の行事になっているのだ。