作法とは価値観(何が重要で何が重要でないか)の表現である。
作法の根っこは価値観である。
作法は根のない単なる”形式”ではないのだ。
和食の作法は、「米への敬意」という価値観に満ちている。
だから、最初に箸をつけるのは作法的には汁ではなく飯である(知ってた?)。
そしてそれ以降も飯を中心に箸を運ぶ。
和食の作法は”ご飯中心主義”なのだ。
おかずは飯を食べるための促進物にすぎないので、本来的な位置をもっていない(めんどうなら、梅干し1つで済まされる)。
だから、「ご飯が進む」とか「飯泥棒」とかいわれるおかずほど、味を濃くするために塩分が高い。
米は、完全食ではないものの栄養価に富み、大量生産ができ、長期保存ができるので、
多くの人びとを養うことができるとてもありがたい食品。
古代以来、主食として重要視され、神聖視されたのももっともだ。
和食の作法を改めるとは、かような米への特別な敬意を改めることを意味する。
米偏重の食生活は、肉体労働から解放された現代人にとっては、
栄養学的にもバランスがよくないからだ。
飯は主食ではなく、パンと同様、
いつもテーブルの脇にある万年副食という位置でいいのではないか。
パンの位置であっても、西洋では確固たる敬意(キリストの肉)を維持している。
実際、日本でも、人口が減少に転ずる以前から米の消費量は減少一方だった。
これは米に依存しない食生活が実現しつつあるからだ。
私とて、パンはほとんど食べないが(洋食メニューだとどうしても脂質過多になるから)、
大好きな麺類(そば、パスタ)は米に匹敵する頻度で食べる。
すなわち、私にとって、米食は食事の半分程度(しかも毎回お椀1杯)。
稲作以前の日本人は芋を主食にしていたということもあり、
時たま飯無しで芋(ジャガイモ)料理を楽しむ。
従って、私には、米に対する伝統的な敬意は”過剰”に感じてしまう。
なので、脱・米中心の作法への改変には抵抗感がない。
その証拠に、最初に飯に箸をつけるという作法を知っていながら、
作法教室以外では実行していない。
価値観がすでに米崇拝から脱しているのだ。
多くの日本人と同じく。
この流れは、和食の作法だけでなく、
日本人の栄養バランス、そしてわが国の農業のバランスも変化させるだろう。
現在、正式とされている和食の作法は、豪勢な「本膳料理」を前提としている。
もっとも「一汁三菜」の庶民的な銘々膳も、本膳=一の膳のみの状態だから、
作法的には同一であり、現在の家庭での和食も、一部大皿料理が混じる以外は、
銘々膳の作法でまかなえる。
逆にいうと、いわゆる専門店での「日本料理」は膳形式ではなくなり、
西洋料理風の皿の置き換え形式になっているので、
”複数のおかずとご飯を交互に食べる”という基本作法ができなくなっている。
なので、和食作法の実習は、日本料理店ではまったく不可能。
小笠原宗家礼法総師範の私は、
かように現在の日本料理を厳しく批判する立場なのだが、
先日の記事(和食の作法1)のように、ご飯偏重の既存の和食作法の方に疑問が出て来た。
酒宴料理でしかない現在の日本料理は、
皿ごとに出されるおかずだけをまず食べ、
最後は、ご飯が漬物と一緒に出される。
酒の席だと、そのご飯は茶漬けの場合もある。
これは、主食たる”飯”のはなはだしい軽視であるのだが、
実は、「湯漬け」という伝統的食べ方でもある。
本来の湯漬けはおかずもたいしたことないが、
現在の日本料理では、立派なおかずがその前に複数続くので、栄養的に問題ない。
そして、ご飯は最後に粥状態で、さらっと食べるので、量が少なくて済む。
すなわち、”ご飯を食べるための食事”という発想でなくなる。
この食べ方、”酒好きなお父さん”の食べ方であり、
食事に酒を導入すると、必然的にこうなる。
とりわけ、日本酒は(少なくとも私的には)、同じ米のご飯と両立できないので、
おかずは酒の肴として、ご飯抜きで食べ、
最後に残ったご飯は、すでにおかずは平らげたので、
適当にふりかけなどかけてさらっと食べる。
もともと、最後に飯椀に湯や茶を入れたのは、
椀を洗う意味もあった(銘々膳では食器は洗わない)。
この食べ方は、ご飯を椀一杯ですませ、しかも最後なので、
カロリー的にも血糖値的にも望ましい。
今では私も、血糖値の上昇を抑え、栄養バランスを豊かにするため、
おかずでご飯を食べずに、
サラダ→おかず→ご飯という時系列で食べる。
最も空腹な段階でサラダに手をつけるので、まずは野菜の摂取量が増える。
次のおかずは、白米と一緒に食べないので、薄味ですむ。
そしてご飯は充分食べた後なので軽く一杯ですむ。
私がこの食べ方に慣れた一番の理由は、
自分が”酒好きなお父さん”になったからにすぎないのだが…。
かような食習慣が確立されると、外食の”ランチ”など、
いまだに飯を食べるための組合せで炭水化物が多すぎて
(ご飯大盛、半チャンラーメンなど)、とてもでないが注文できない。
飯中心=カロリー摂取優先の食事は
(いつでも空腹の男子高校生以外の)現代人には合わない。
ちなみに”糖質”を蛇蝎の如く嫌悪する民間健康法があるが、
特定の栄養素をかたくなに拒否する極端な発想は、
強迫症状そのものであり、精神的にも不健康
(これは”紫外線”や”自然放射線”についてもいえる)。
なによりブドウ糖は脳の活動源として必須なのだ。
100円ショップなので、1品あたり税込みで105円である。
だから10品買えば、1050円となる。
適当に買いたい物を買物カゴに入れ、レジに向かった。
レジでの会計の最中、直感的に1000円を超えるだろうと思って、財布の1000円札をつかんだ。
会計が終わって言われた合計金額は、思っても見なかった丁度1000円!

それを聞いた私は軽く驚きの声をあげ、つかんでいた1000札だけをそのまま渡した。
レジの女性は、私を見て微笑んだ。

実は、カゴの中に1つだけ”50円引き”のサラダを入れていたのだ(右図)。
この安売りのサラダを選んでいなかったら、
あるいは最後まで買おうか迷った冷凍ソラマメをカゴに入れていたら、
このような結果にならなかった。
いつもはも受け取らないレシートを、今回だけは記念にもらった。
同様の体験は過去に幾度かあり、私のHP(「おれんちの世界」)にも載せてある。
これは、オータムジャンボ宝くじを買ったほうがいいかもしれない。

フランス料理を食べに行く時、テーブルマナーを気にするだろう。
ところが和食を食べる時は、作法は既知のものとして気にしない。
たいていの人は、和食の作法は身に付いていると思っている。
だがそれは、作法ではなく”習慣”だったりする。
そこで作法家の登場である。
なぜこの世に口うるさい作法家がいるのか。
作法は習慣とは異なる、もっと洗練されたものだからだ。
作法家によれば、多くの人の振舞いの”習慣”は作法に叶っていない。
たとえば、食事の前に、「いただきます」と言う時、合掌するのが作法だと思っている人がいるようだ。
とりわけ、NHKをはじめとするテレビ局はそう思い込んでいるフシがあり、
作法家としては食事場面のシーンは目をそらしたくなる。
江戸時代の学者・西川如見によれば、この動作は、農家の風習であって、武家や公家の作法にはない。
作法的には”合掌”は不要である。
軽く上半身を屈して礼をすればよい
(和食作法はそもそも禅寺での作法が根拠なのだが、宗教臭さをそぎ落としているのが特徴なのだ)。
ちなみに、わが家ではずっと作法通りにしており、
合掌する所作は大学時代にはじめて地方出身者がそうするのを目にした。
同様に、漬物でご飯を食べるのも、おかずの少ない農家の風習であり、
作法的には漬物はお茶請けであって、食後の茶の”おかず”だ。
これは室町時代のあちこちの作法書に書いてある
(逆に言えば、当時から漬物でご飯を食べる人がいたらしい)。
ただ、伝統的作法を、そのまま無批判に現代人に適用するのも問題だ。
作法の本質は、”最適性”にあるのだから、現代の知見から最適でないと判断されるなら、
未練なく、作法それ自体を改変すべきだ。
この点が、伝統芸能との違いになる。
和食の作法は、「米」に対する表敬がやたら強く、食事作法も”ご飯”中心である
(合掌こそしないものの、気持ちは同じ)。
作法的にも、おかずはご飯を進めるための添え物にすぎない。
おかずは、二度続けて箸をつけてはならないが、ご飯だけは許される。
そしておかず1→ご飯→おかず2→ご飯→おかず3→ご飯…と、頻度的にもご飯を中心にして食べる。
これでは、炭水化物の過剰摂取になる。
和食は、現代の栄養学からは、必ずしもバランス的に理想的ではなく、
塩分が多すぎ、カルシウムが少なく、糖質も多すぎる。
高血圧でさらに血糖値が気になる私としては、正直、作法通り食べるのがつらい。
もちろん、脂質が多すぎる西洋料理も理想的でない。
作法は慣習ではなく、その時代の理想であるべきだから、
人々を健康にする食べ方こそ作法となってほしい。
さわやかな快晴だが、10月なのに気温は30℃を越えている。
こんないい天気だと、どこかに出かけたくなる。
今日は東京にいるので、今日だったら最高に眺めが良いい「スカイツリー」が一番適しているのだが、
あそこに行くには、長蛇の列に加わる相当な覚悟が必要。
今の私にはその覚悟はない。。
それに気温が高く日差しが強いので、屋外に居続けるのはつらそう。
もう少し涼しければいいのだが…
結局、国会図書館に行って、2本目の論文の原稿を進めた。
月曜は、自分の研究のための「研修日」なのだから、それが当然でもある。