玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

憲法解釈は二度ベルを鳴らす <続き>

2015-08-25 21:51:10 | 近現代史

実は、戦前の日本には憲法解釈の警鐘が二度鳴っていた。

一度目のベルは、『統帥権干犯』という国会・政府を無視した天皇直結の国家意思形成手段が国会に於いてその存在が認知され、世情にも広く認識された。軍人が一声「統制権干犯!」と怒鳴れば、誰もが身体を硬直させ、その主張を無視できなくなった。やがて、その言葉が他者を圧迫して軍部の行動論理を突き通す如意棒となった。それは旧憲法の第12条編制大権の解釈論から発した。

憲法解釈論から発せられた二度目のベルは、1935(昭和10)年8月、10月の『国体明徴』という二回の政府声明であった。俗に謂う『天皇機関説』の問題であった。旧憲法第4条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規二依リ之ヲ行フ」とあるが、これを東京帝国大学の美濃部達吉らは立憲君主制の根拠にした。西園寺公望、枢密院議長一木喜徳郎ら宮中派はこの解釈を支持していた。

ところが、同じ東京帝国大学教授の上杉慎吉らは、憲法第1条には『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇ガ之ヲ統治ス』とあり、字義通り、万世一系の天皇が国家を統治するとして、天皇の権能を専制君主的に捉えた。その解釈を枢密院副議長平沼騏一郎や国本社に関わる陸軍の真崎甚三郎教育総監ら皇道派系軍人たちが支持をした。

時の国会では、岡田内閣の倒閣を企図する政友会が貴族院の菊池武夫らの「天皇機関説」への排撃質問に便乗した。最後は与党の民政党までこれに同調し、憲法解釈としての「天皇機関説」を否定する「国体に関する決議案」として満場一致で決議をしてしまった。

こうした動きに対応を迫られた政府は、「憲法第1条には『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇ガ之ヲ統治ス』とあり、帝国の統治の大権は厳として天皇に存することは明らかなり。」と声明をし、「いわゆる、天皇機関説は神聖なる我国体に悖り…厳にこれを芟徐(サンジョ)せざるべからず・・・」として、美濃部の天皇機関説に関わる冊子を発禁処分とした。

ここに、『統帥権干犯』と『国体明徴』の二つの憲法解釈理論により、国会や政府の干渉を受けない鉄壁な天皇直下の軍政権力体が創出された。それを操縦していくのは専ら陸海軍の参謀本部と軍令部という双頭の権力構造が造られていく。また、天皇直下と云っても、その中身は天皇親政ではなく、明治維新の時の西郷・大久保の言ったような、天皇は玉で、其れを得た者が国家権力を掌握するというしくみに似ていた。

何よりも、憲法解釈をめぐって、軍国化に走る二度の警鐘(ベル)に気が付かず、愚かにも、それを自らの権力奪取に利用しようとした政党や政治家の罪は重い。やがて2・26事件でまっしぐらに軍部優位の政治体制となり、政治や外交の延長に軍事があるのではなく、軍事を専ら基本にした戦争国家として国家総動員体制へと進化していく。

敗戦後、さまざまな反省、懺悔、悔恨が飛び交う中で、津田左右吉は「国民は確かに法的強圧と軍部の宣伝に騙されていたが、その時期はまがりなりにも選挙による議会が存在したではないか」と指摘する。(J・ダワー『敗北を抱きしめて』より)今の時代はまともな選挙による国会がある。このたびの安保法案の成立によって、再度日本が戦争をすることになれば、憲法解釈を誤った政治家を選んだのは、実は我々国民だったと、また誰かに、謂われることになるのか。

コメント (1)
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