こうなれば、誰が戦争を起こし、誰が戦争の責任を問うのか判然としなくなってしまう。まさに、人間という動物の極限の生存競争になってしまうから。
1987年公開のドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』(監督:原一男、疾走プロダクション)をネットで見た。
映画はもう一度見たいと思うモノと、もう見たくないと思うモノと二分割である。これは後者の方であろう。
その理由は、演じた本人(奥崎謙三)の期待した「この世に政治家・法はいらない」という思想・宗教観と、監督の意図した狂気を持った人間の生きざまと、観客が望む戦争の極限状態の人食いというドラマと、それぞれが中途半端に終わっているからだろう。三者誰もが満足しない。三者が夫々に問題を持ち帰ることになる。
奥崎が天皇にパチンコ玉を打ったのは1969年。既に終戦から20年以上の時間が経過していた。天皇に戦争責任を問うたのだろうか?左翼はそれを想像し、期待したが、彼は天皇の政治性に向かって攻撃しただけ。彼にとって、天皇も田中角栄も等しく殺す存在だった。
1969年の奥崎のパチンコ事件は、ともかくとして、石ころすら投げつけなかった何百万の、何千万の戦争の惨禍を経験した者たちの方が頭にこびりつく。そのこと自体が、戦後生まれた者にとって、この国の近現代史を決して解けない鋼鉄の固形物にしている。
旧東海道丸子宿にて