先の大戦では、米国は日本に戦争させるように仕向けたのではないか?
かつてこの国が石油もくず鉄も止められ、むろん資産凍結もされて、中国本土からトットと出て行けと言われた。当時の日米交渉は、一切の妥協も許されず、アメリカの原理論を押し付けた。
結局、窮鼠猫を噛むの如くに、東洋の小国にハラキリの真珠湾攻撃をさせた。かつ、それが奇襲になることをも結果として黙認したのではないか?
しかも、更に平然と善人の顔をして、ほぼ真珠湾攻撃のほんの少し前に着くように時間をすり合わせて、恰も平和を求めているかのごとくに天皇への親書を送りつけた。然も短波放送で世界に喧伝までして!(実際は当時の軍部が送達を遅らせたので、攻撃を止められる時間には着かなかった!)
全くルーズベルトとは恐ろしい人間のようである。一説には、彼が死んだので無条件降伏ではなく、ポツダム宣言の条件受諾降伏になったと言う人もいる。
A級戦犯で20年の禁固となった開戦時と敗戦時の外務大臣であるという数奇な巡りあわせの東郷茂徳は、禁固20年の刑を受けて巣鴨プリゾンで1950年7月に死んだ。彼は死ぬ五日前に娘に原稿を託した。そして二年後に『時代の一面』が刊行されたのである。
この本には、開戦前に、米国の態度は「極めて非妥協的で、ただ事実の遷延を図り、交渉の決裂、延いては戦争を辞せざる決意なくては執れないとの印象を強く受けた」と、彼の米国の印象が記されている。
真珠湾攻撃後の翌年の冬、東郷は既に外相を辞めていたが、ディビィス・リンドレ―『戦争の由来』を閲読して、1941年8月の英米の洋上会談で米国側の確固たる戦争の決意を知った。それで「実はルーズベルトに謀られた!」との疑惑を深めた。
終戦後、巣鴨プリゾンで、「米国議会査問委員会の調査資料」を入手し、愈々その疑惑が誤りでないことを確信した、と書かれている。
『時代の一面』は、東郷自身は冒頭で「弁明の書ではない」と言っているが、結果として、真実を告発しても、弁明と受け取られるのが、時間の経過がもたらす「動かしたくない歴史」の流れなのかもしれない。しかし、死の淵にあった東郷が、この『時代の一面』を残したと思うと、この本を又読み返す気になっている。
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