思えば、昭和16年、1941年12月8日の『木戸日記』には、ー
今日は珍しく好晴なり。…思えば、愈々今日を期し我が国は米英の二大国を対手として大戦争に入るなり。今暁既に海軍の航空隊は大挙布哇(ハワイ)を空襲せるなり。之を知る余はその成否の程を気づかはれ、思わず太陽を拝し、瞑目祈願す。
…7時半、首相と両総長に面会、奇襲大成功の吉報耳にし、神助の有難さをつくづく感じたり。
木戸はこの日は特別に晴れやかな日だったに相違ない。
終戦後、木戸幸一は巣鴨プリゾンに在って、1946年1月15日の第2回の取り調べで、記録書を差し出した。
そこには「真珠湾攻撃は開戦の通知前に行われるや否やの問題は、未だ誰も之に気を留めたものはなく、宮中に於ては当然通告ありて後と考えて居った」と書いてあった。
真珠湾奇襲自体を否定したのである。
しかし、既に木戸は『木戸日記』を米国検察官に差し出している。いや、違う、昭和16年度分だけは一番遅れて、1月23日に提出しているのだが、早晩英訳されれば、すぐに真っ赤な大嘘とわかるのだが、…。
ただし、このことが市販の書物として、誰でもが読めるようになるのは随分と後のことである。
『木戸幸一日記(下)』1966年、『木戸幸一日記 東京裁判期』1980年
ハワイの陸軍博物館
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