少し復習になって恐縮します。1945年12月6日の木戸の日記が無いと宮中で騒いだが、結局見つからなかった。
木戸は12月16日に巣鴨プリゾンに入れられ、12月21日、自動車で芝の服部邸に連れられて主席検事のキーナンらに会って「木戸日記」の提出を承諾した。何回かに分けて検察局へ提出したが、東條内閣誕生の昭和16年分だけは、翌年の1月23日に遅れて出していた。その間に、自らが不利になる箇所は削除または改竄していると思われる。
【『木戸日記 東京裁判期』東大出版会】
木戸は当然写しは取ったと思うが、当時は複写機はないだろうから、どう写したのか解らない。手写しか、写真か、それとも動員筆記か?
一方、宮中では、12月4日に木下道雄侍従次長は天皇と話し合い、「戦争責任については色々お話あり。‥‥御記憶に加えて、内大臣日記、侍従職記録を参考に一つの記録を作り置く」との許可を戴いた。が、その肝心の内大臣日記=木戸日記が無いのである。木戸が日記を持ち帰っていた。
【木下道雄『側近日誌』文芸春秋】
他方、GHQのフェラーズ准将の強い要請があり、その為に宮中に送り込まれたと推察される元外交官の寺崎英成の御用掛就任もあり、翌年の3月から4月までに、4日間5回にわたって昭和天皇から聴取し、寺崎も入れて5人の側近がこれを纏めたモノを作成した。それが昭和天皇崩御後に公刊された『昭和天皇独白録』であるが、その作成時には天皇と5人の側近の手元には『木戸日記』は無いのである。
【寺崎英成・マリコ・テラサキ・ミラー『昭和天皇独白録』文春文庫】
『木戸日記』の本体は既に東京裁判の検察局に渡されていた訳であるが、「写し」はあったのだろうか。少なくとも「写し」が無いと検察局の証拠との齟齬を生じることになる。
随分と面倒くさいことになった。有態に言うと、天皇と側近たちは嘘がつきにくくなった。【次回へ】