1999年8月26日 須崎での静養中の天皇ご一家
1999年9月10日 長野県志賀高原静養
週刊女性 1999年9月21日号
「スクープ 雅子様突然のドイツ訪問中止・・もしや」
1999年10月5日 前年の豪雨被害に会った栃木県の菊栽培農家を訪問
週刊女性 1999年10月19日号
「雅子様がお気の毒あの有名教授が提言」
1999年10月14日 秋の園遊会
1999年11月13日 即位10周年宮中茶会
1999年11月29日 誕生日会見
1999年12月1日 ヨルダンのアブドゥラ国王・ラーニア妃来日
1999年12月3日 皇太子夫妻 ベルギーへ出発
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1999年12月4日 フィリップ皇太子の結婚式に出席
その後、ベルギー郊外のデルビュイへグルメ旅行
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1999年12月5日 在ベルギー大使・兵藤長雄氏の紹介によりお忍びで、ブリュッセルのレストランで食事。普通にワインを飲む
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1999年12月7日 帰国
1999年12月9日 雅子妃
1999年12月10日朝日新聞
「雅子さま懐妊の兆候 近く詳細な検査」
新聞報道当日の小和田優美子 「違っていたら妃殿下が傷つく」
1999年12月13日 検査へ赴く雅子妃と小和田父
週刊女性 1999年12月21日号
「雅子様の訪欧が直前まで反対された理由」
週刊朝日 1999年12月24日号
「雅子様幸せの懐妊」
「雅子さまが体の変化に気づいたのは十一月下旬だったという。生理がなく、基礎体温が上昇していた。侍医に相談して、十二月初め、妊娠検査薬を使ったところ、陽性。一九九三年六月のご成婚から六年半、待ちに待った朗報だった。
ところが十二月三日からはベルギー皇太子の結婚式に皇太子とともに出席することになっていた。
「体のことだけを考えると、キャンセルしたほうがよかったかもしれない。でもドタキャンすればマスコミに『ご懐妊では?』とまた詮索されることになるし、日本の皇室にとってベルギー王室は特別な存在なので、出席したかったようです」(皇室に詳しいジャーナリスト)
ベルギー王室と日本の皇室は古くから深いつながりがある。昭和天皇の「大喪の礼」のとき、ベルギー国王が真っ先に参列を表明し、それが呼び水となって五十ヵ国以上の元首が参列するという豪華な顔ぶれにつながった。特に皇太子とルギーのフィリップ皇太子は同じ年の気の合う友人で、互いに両国を訪問し合い、独身時代から、
「どっちが先に結婚しても、式には招待しよう」
と約束し合った仲だった。その約束の式典だけに、できれば夫妻そろって出席したかったというのだ。
宮内庁幹部は、皇太子夫妻の意向も踏まえて、雅子さまのベルギー訪問にゴーサインを出した。ただ、万一を考えて侍医を随行させた。短期の海外訪問で、通常は侍医が同行することはない。外務省にも「ご懐妊」は知らせなかったため、「なんで侍医がついていくんだろう」と噂になったという。
皇太子夫妻は特別機でベルギーに着いたが、天候はあいにくの暴風雨。
「フィリップ皇太子と婚約者のマチルドさんがびしょぬれになってタラップの前で出迎えました。雅子さまは青いコート姿でしたが、いま考えると、転んだりしなくてよかった」(在ベルギーの女性ジャーナリスト)
皇太子夫妻は、ベルギーで散歩予定を取りやめたことはあったが、十二月四日にフィリップ皇太子とマチルドさんの結婚式に出席したほか、ベルギー国王に招かれて城を訪ねたりと、精力的に動いた。急な「ご懐妊」判明で間に合わなかっためか、雅子さまは結婚式では、青のスーツに合わせた、高さ六センチほどの青いハイヒールを履いていた。
滞在中は兵藤長雄大使の公邸に泊まったが、兵藤大使はこう驚く。
「ワインも普通に飲まれていたし、まったくそんなそぶりはなかった。いま考えれば、侍医がついてきていたのはそういうことだったんですね」
週刊新潮 1999年12月23日号
「雅子妃ご懐妊騒動余波」
仮に懐妊していた場合、それでも宮内庁や外務省が雅子さんをベルギーへ行かせたのかな
結婚7年目にして、漸く巡って来たチャンスですよね。懐妊していることがわかったら常識的には大事をとってベルギー訪問は中止になるでしょう。突然のキャンセルが非礼になるなら、先方に事情を説明して皇太子一人だけが訪問すればすむ話です」
週刊文春 2006年3月23日号雅子様50人の証言
「元宮内庁関係者I氏は話す。
「ベルギーのご出発前に基礎体温が上がるなど、ご懐妊の兆候があったのですが、そのことを両陛下に報告されずにベルギーに行かれたと聞きました。ようやく外国へ行く機会が出来たのに、いま報告すれば止められるのではないかと東宮側が恐れたというのです。
さらに後でわかったのですが、ご夫妻はこれまで外国へ訪問できなかったことをベルギー王室の方々にお話しになり、しばらくして王室関係者から皇居のほうに伝わったようです。天皇皇后がご不快に思われたのは想像に難くありません」
流産の診断をした医師は会見で「ベルギー訪問や報道によるストレスが原因ではない」と明言したが、念願の外国訪問と流産が重なったことは、雅子さまにとって不運だったとしかいいようがない。
FRIDAY 2000年1月1日号
「懐妊騒動極秘情報をリークした宮内庁君側の奸と大新聞、テレビの報道ー天皇陛下が怒った!!前代未聞ご懐妊騒動雅子様泣かないで」
女性自身1999年1月4日・11日号
「ご懐妊発表延期の謎を追う雅子様36歳初産の不安」
1999年12月23日 天皇誕生日の為参内
週刊現代 2000年1月1日・1月8日号
「雅子妃ご懐妊報道皇太子夫妻と奥の全真相」
女性セブン2000年1月6・13日号
「雅子様ご懐妊の密告者」
「ご懐妊スクープにおどった「朝日新聞」「NHK」「週刊朝日」……
「これはセクハラ」と今井美樹も怒った!女性たちから憤りと疑問の声、声、声!
尿検査、基礎体温報道は女性蔑視ではないのか!」
1999年12月30日 雅子妃繋留流産報道
確かに「懐妊報道」に関してはフライングだったなと思います。朝日新聞は皇太子夫妻の味方の筈なのに真っ先にそれをやってしまった。
あの当時は・・・マスコミの期待が大きかったんです。皇太子夫妻は公務よりもお遊びばかり、静養ばかりで目新しさがない。かつての美智子妃のようにファッションで国民を沸かせてくれるわけでもない。でもそれは皇室は困る・・・と考えたのは誰?一番の目立ちたがり屋。
皇室はマスコミにあおられてなんぼと考えた人達でしょう。
話題に上らない、称賛されないということはすなわち忘れ去られるというような話だと思い込んでいた人達でしょう。本来、皇室的に雅子妃はダイアナのようなフィーバーを起こしてしかるべき存在と思っていて、そうすれば少々頼りない皇太子でも安泰だった筈。
それが、二人そろって期待に応えないばかりか、自己主張ばかりやる。
正直、辟易していた人達もいたでしょうね。
結果的に流産したことで、壮絶な雅子妃からのリベンジポルノが始まるわけです。
流産したことは悲しい事です。
でも、その前に懐妊がわかった時点でやるべきことが会った筈。それは海外旅行を取りやめることです。それを夫婦して懐妊を隠してまで強行し、遠征旅行までやってしまう愚かさ。飲酒や遠出での身体の冷えは妊婦によくなかったのに。
雅子妃の顕微授精はある程度の予測がついていたので、報道陣もわりと安心してスクープに走ったのではないでしょうか?
ところが流産してしまったが為に、悲しみや怒りを誰かのせいにして紛らわすという日本人ならやらない行為を始めてしまった。
「マスコミのせい」「国民のせい」とマスコミがマスコミを叩く、国民を叩き始めるのです。
国民が何をしましたか?ほとんど皇室に関心のない人達ばかりで、雅子妃の解任を待ち望んでいた人などいなかったでしょうに。国民よりも雅子妃懐妊を望んでいたのは多分にマスコミ、ネタに飢えていたマスコミなのです。
そして東宮家に男子が生まれれば皇后も満足、秋篠宮家の産児制限も解けるというわけです。
当の本人は母になることより、海外でおもてなしを受ける方を優先したかったというのに。
皇室内のあらゆる人達に迷惑をかけたのは皇太子夫妻であったのに、いつの間にか話題がすり替えられて「雅子様お可哀想」の流れになっていくのです。