本当に左翼とか反日とかいう人は、些細なことをさも大きなことのように広げて報道し、そこに嘘を練り込んでいきます。普通の国民はもう報道を信じるしかないのです。
アメリカやイギリスで起きているデモも扇動する左翼組織がいることはわかっている。
人口の比率的に黒人の方が多くなっているアメリカで白人は少数派じゃないかと。
「文化が違う、歴史が違う。だから分けて欲しい」と思っている人もいる。そういうのを全部「差別」とみなして「権利」だけ主張するのはおかしい。
大坂なおみも、そこまでアメリカの黒人社会に傾倒するなら国籍をアメリカにすべきでしたね。自分は安全圏の日本人で、肌がたまたま黒かったというだけで「差別された側」にいるのはおかしいでしょ。
アメリカやヨーロッパの「国家安全法」への反対に日本だけが参加拒否した・・・という一件についても片山さつき氏によれば、香港でデモや暴動が起きた時に、まっさきに中国大使を呼んで意見を言ったのは日本だけだそうです。
そもそも世界が騒げば国家安全法は撤回出来るのか?戦争を起こす覚悟がなければそれは無理。トランプやイギリス人などがそこまでアジアに興味があるとは思えません。
本題。
先週の「AERA」に「愛子天皇「あり得る」「不自然なことではない」 最後の将軍の孫・喜久子さまが語ったこと」
という記事が載りました。
書いたのはコラムニストの矢部万紀子という人。この人を良く知らないけど1961年生まれで、喜久子妃に関する書物などをよみ「怖いおばあさま」という印象を持ったらしい。でも、雅子妃が愛子内親王を産んだ時に女帝もありうると発言したので、その印象は変わったとのことです。
まず、高松宮喜久子妃を知らない人もいると思うので。
喜久子さまは、
1911年生まれ。徳川慶喜の孫にあたる。母は有栖川宮家出身。
18歳で高松宮宣仁親王と結婚。
大正天皇は有栖川宮家が絶家になる時、家名を残してほしいという宮家の意向を受けたが法律上それが出来ず、代わりに3男の宣仁親王を3歳で高松宮という宮号を授け、有栖川宮家の祭祀と財産を受け継がせた。
2004年死去。
秩父宮妃勢津子妃殿下は会津松平家出身で、遠縁だし、常陸宮妃とも秋篠宮妃とも繋がっている方です。
愛子内親王が生まれた時、昭和天皇の兄弟で生きていたのは三笠宮両殿下と高松宮妃で、この頃は本の出版などで頻繁にマスコミに出ていらしたような記憶があります。
喜久子妃の著書を読むと、彼女が憧れていたのは秩父宮殿下で「お兄様」として慕っていた様子がよく書かれていました。高松宮殿下は妻にはあまり優しくない人のようで、子供もいないしかなり孤独な「妃」人生を送られていたような気がします。
がん基金やハンセン病患者への貢献度も高かったし、秋篠宮殿下には書道を教え、紀宮殿下を実の娘のように可愛がっておられたそうです。
その宮妃が、愛子内親王が生まれた時に「好もしい出産の順序として一姫二太郎と申します」ここだけ取り出して筆者は「雅子妃へのプレッシャー」はいかばかりだったかと慮っています。後に「もっとも、『二太郎』への期待が雅子妃殿下に過度の心理的負担をお掛けするようなことがあってはなりません」ともおっしゃっていて、そこで初めて「怖いおばあさま」印象から抜けたらしい。
私は、この発言を「婦人公論」でリアルに読んだけれど、宮妃は「どんどんお産みになればよろしいのよ」派なんだと実感しただけです。
それというのも、当時、産児制限をかけられていた紀子妃に「どんどんお産みになればいいのよ」とおっしゃったのも喜久子妃ですから。
お子様のいない喜久子さまにとってみたら「産める人はどんどん産めばよろしい」で、そこにプレッシャーだの男女平等が云々などは含まれていません。
昭和天皇の兄弟の中で、子供が生まれたのは天皇と三笠宮家。
昭和天皇は男系男子が生まれるまで苦労したけど、それこそどんどん産み続けて結果を出しました。また三笠宮家にも男子が3人生まれていたのでで、秩父宮妃にしても高松宮妃にしても、外側から皇位継承を見ていたという事になるでしょう。
要は懐の深い、寛容でお優しい方だったのです。
だけど、雅子妃は「一姫二太郎」の部分だけでもう気に入らなかった。
本人からすると「2人目を産めというわけ?何言っちゃってるの」だったでしょう。
「私が産んだ一人を天皇にするのが筋」と考えたんでしょうね。
せっかく、愛子内親王の誕生を寿いでくれた高松宮妃に一度も愛子内親王を会わせなかったのです。
で、件の矢部氏は故高松宮妃が「婦人公論」に発表した
「それにつけても、法律関係の責任者の間で慎重に検討して戴かなくてはならないのは、皇室典範の最初の條項を今後どうするかでしょう。女性の皇族が第百二十七代の天皇さまとして御即位遊ばす場合のあり得ること、それを考えておくのは、長い日本の歴史に鑑みて決して不自然なことではないと存じます」
これを取り上げて「高松宮妃は女帝推しだった」と結論づけているのです。
高松の宮妃のこの文章には「幾人もの女帝がいらっしゃいました」とか「女王がいて栄えた国もある」と書いているそうですが、「ありうる」との言葉一つで矢部氏は「平成の次の次の天皇は女性天皇でいい」と発言したとしているのです。
私は矢部氏に言いたい。
私よりも年上なのに皇室にうといし、皇室の考え方にうとすぎる。やっぱりご両親は昭和ヒトケタの終戦時子供だった反日世代でしょうか?
私の両親は大正デモクラシー時代ですから、皇室への敬意と昭和天皇への敬慕についてはよく教わったし、皇后や妃殿下方のお血筋まで教わりました。
まあ、それはいいとして。
高松宮妃のご発言は決して「愛子女帝」を認めるものではないのです。
それを証拠に「愛子内親王が女性天皇になっても」とは書いてないでしょう?
「女性の皇族が第百二十七代の天皇さまとして御即位遊ばす場合のあり得ること」
確かに127代と言ったら愛子内親王しか思い浮かばないとは思うけど、喜久子妃としては決して「皇太子の子でなくてはいけない」とは思っていなかったと思います。
眞子内親王だったかもしれないし、結婚前の紀宮だったかもしれない。
喜久子妃はあくまで「女性皇族が」とおっしゃっているのです。
喜久子妃は、「一姫二太郎」発言で皇太子妃が傷ついたのなんのと言っているのを聞いたかもしれません。さらに、この発言を面白くないと思っている皇后にも配慮したと思います。
だからあくまでも「127代目として女性天皇もありうる」と言ったので、絶対ではないのです。
もし、高松宮妃がその後、紀子様の懐妊を知り、悠仁親王が生まれたことをお知りになったら「紀子妃はよくお役目を果たされた」とほめ、さらに「これで皇統が繋がった」と素直にお喜びになった事と思います。多分、その頃には愛子内親王のおかしさも気づかれたでしょうから、「ゆっくりお育てになればよろしい」とおっしゃった筈なのです。
また、矢部氏は「「スペイン宮廷の思い出」というエッセイがあり、アルフォンソ13世から「早くお子様をお作りになるように」と言われ、恥ずかしかったと書かれている。当時は新婚だったが、「私達は陛下の御期待にそわぬまま今日に至っている」と続けていた」
「喜久子さまの妹・榊原喜佐子(さかきばらきさこ)さんの著書『大宮様と妃殿下のお手紙』に、子どもが話題になると喜久子さまが不機嫌になることがあったと書かれていた。ほかにも、子どものいない姉夫妻を慮(おもんぱか)る文章はいくつもあった。 喜久子さまの雅子さまへの気遣い、女性天皇を肯定する気持ちには、そういう背景があったのかもしれない。そんなふうに思ったりする昨今だ」
と書いているけれど、読みが浅いのではないかと思います。
アルフォンソ13世から「早くお子様をお作りになるように」という言葉は当時としては当たり前のことで、新婚夫婦をちゃかしているのです。こんな事を新婚で言われたら「もうしりません!」ってぷいって横を向くでしょう。
礼宮と紀子様の婚約記者会見で「お子様は何人?」って聞かれた時、紀子様は恥ずかしがっていると横から殿下が「何人にしましょうか」と助け船を出され、紀子様はやっと「それも・・殿下とよく相談して」とお答えになりました。
アルフォンソ13世との会話もそんな調子だったと思うのが自然です。
また、喜久子妃の妹が子供の話題になると喜久子さまが不機嫌になることがあった・・という一節も、今思えば、高松宮殿下がそもそも女性を好きではない、子供を作る気などさらさらない人であった事を思えば、不機嫌になるのも当然でしょう。
正直に口に出せない。雅子妃などが不幸ぶってもそんなの風に吹く落ち葉のようなもので、喜久子妃の苦悩はもっと重かったと。
ゆえに、古い文章を持ち出して「高松宮妃ですら女性天皇推しだったんだから、愛子内親王を女帝にすべき」という理論はおかしいし、「雅子様の適応障害の原因を取り除く為に必要なのは愛子内親王」という理論はもっとおかしいと思います。
現在、皇統は皇嗣殿下から悠仁殿下に繋がることが決まっています。
まっとうな国民であればそれを応援しないで日本人といえましょうか。