「玉川上水に親しむ会」第234回例会 続きです~
清水谷公園内で昼食後、記念撮影し、午後の部スタート
歩いて行くと、橋に出ます。
橋の手前には「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の表示
その脇に説明版があり、それによりますと、
「明暦3年(1657)の大火の後、この地を拝領。紀伊徳川家は徳川家康の十男・頼宣に始まる家で、
尾張家(九男・義直)、水戸家(十一男・頼房)と共に、御三家と称された。
頼宣は慶長8年(1603)常陸水戸藩主、ついで慶長14年(1609)駿河府中藩主を経て、元和5年(1619)紀伊和歌山藩主となる。
紀伊徳川家は以後14代にわたり、明治維新まで続く。
その中で、8代将軍吉宗と14代将軍家茂は藩主から将軍の座についている。」
橋を渡ります。
橋の名は「弁慶橋」
江戸時代には橋は架かっておらず、江戸時代に神田の鍛冶町から紺屋町、岩本町辺りを流れていた藍染川に架かっていた弁慶橋が、
明治18年(1885)頃に廃橋となった為、その廃材を用いて架け、名を継続した。
現在の橋は昭和60年12月に改築されたもの。全長41.06m、幅22mです。
先へ進むと
立派な石垣があり、赤坂見附跡とあります。
先へ進み、振返ってパチリ!
ここには「史跡 江戸城外堀跡 赤坂御門」との説明版があり、それによりますと、
「正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部。
江戸城の門は、敵の侵入を発見する施設であるため『見附』とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された『枡形門』の形式をとっている。
赤坂御門はその面影をほとんど残していないが、旧江戸城の田安門、桜田門に同じ形式の門を見ることができる。
赤坂御門は寛永13年(1636)に筑前福岡藩主・黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、
寛永16年(1639)に普請奉行の加藤正直・小川安則によって、門が完成した。
江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道の重要な地点であった。
明治時代以降、門が撤廃され、石垣も大部分が撤去されたが、平成3年の地下鉄南北線建設工事に伴う発掘調査によって、
地中の石垣が発見された。」
その先に階段があり、石垣の上から景色を見ます。
眼下に掘と、対照的な現在の高速道路。
来た道に戻ってきて、歩道橋を渡ります。
歩道橋の上から石垣を見ます~
道路わきにあったガイドマップ。
北が下になっている、見にくい地図です~
(CANON PowerShot S120)
つづく~
昨日(5月19日)のトータル歩数10740歩、脂肪燃焼量30.7g、総消費カロリー1992kcal
昨日は書道教室でした~ 運動会の練習でクタクタな小学生・・・
部活が忙しく、でも30分でも稽古したいと遅れてきた中学生・・・
みんな、頑張ってます~!
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