ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

キンカン

2013年11月05日 | 日記

 鉢植えにしたキンカンの幼木に実がついた。まだ青い。その青さが葉の濃い緑の葉の中軸に鎮座している。柑橘系の植物は照葉で、雨上がりなどは特に瑞々しくて、心が洗われる感じがする。絵がうまく描けるといいのだが。 

 今、ある人のツイッターから示唆を受け、法的言語について、考えている。

 テキストとなるのは吉本隆明「書物の解体学」の中のモーリスブランショの項である。この本は昔買っていたが、あまりにも難しすぎて、というか、解体の対象になっているフランス文学や精神分析の書物など、著者や書名だけを遠くから眺めていただけだから、当時は取り付く島もなかったのだ。

 しかし、ツイッター氏の示唆を受け、今読んでみると、腑に落ちることが書かれている。

 この一章の中に「言葉と法」という箇条があって、日頃、もやもやしていたことがなにかヒントになる文章になっているのである。カフカについて論じているが、論旨についていうと、カフカの作品は変身にしろ、城、判決にしろ、日常の感覚が法的な(国家権力)言葉で普遍化される時の異和が、暗喩として表現されているのだ、というのである。

 私らはあの東北大災害、そして原発事故に立ち向かって、多くの識者の説諭に晒されて来ているのだが、いずれも正義を盾に取ったものばかりで、心底納得できるものではないのである。個人的な感想を言うと、復興にしろ、廃棄物の議論にしろ、なにか「たまったものではないな!」という心の痼りがだけが残るのだ。そのことについては、前回の「その判決に異議あり」として、一部述べてみた。この2年ほどは、つまり東北の大震災を契機に、様々なことが私たちの考え方の根底を問いただしているように思うのである。

 ブランショだって?、カフカだって?、直接関係ないだろうが? とういう揶揄も聞こえそうだが、人の考えることは数千年来の積み重ねの上にしかありえないのである。そして私たちは、この現実から少しでも先に抜け出る方途を、法的な言語(国家に支配されている普遍的な言語)に抗して、探しあぐねているのである。【彬】

 

 

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