終戦記念日前の8月5、6 日の両日、朝日新聞が今日の日韓関係の「こじれ」の一端となった従軍慰安婦問題について、一部誤報があったことを認め、実に30年ぶりに訂正の紙面を作った。
この問題の概要については池田信夫氏らのブログに詳しいので、ここでは触れないが、事後処理について、大まかにいうと次の3点が論点になっている。
①新聞は企業や官庁の不手際については厳しく責任を追及しているのだから、自らの問題についても同様の処置をとり、訂正を含め公に会見を開き謝罪すべきである。
②この問題は日韓関係の悪化をもたらすという政治的な影響を与えているのだから、国会として証人喚問をし事実関係を明らかにすべきだ。
③問題の記事、並びにそれを基にした数々の記事は、当初から疑問視する意見が出ていた。朝日が知らないわけがない。にもかかわらず検証する作業を怠り、30年もの長い年月、放置してきたのは、社内的にどういう理由があったのか、点検公表する義務がある。
というものである。
新聞記事を国会で取り上げるというのは、新聞の役割からみて、いささか疑問であるが(韓国では産經新聞の記事に対して名誉毀損の捜査令状を執行している)新聞関係者は、朝日に限らず、この問題についてはもっと深刻に考えた方がいいと思う。
通常、新聞記事は警察や公官庁が発表する出来事を記事にする。また読者からの情報提供に触発され、独自取材をして記事にする。しかしいずれの場合も、記者の社会意識=正義観や倫理観を伴った公共意識が基になって記事のフォーマットが作られる。これが新聞を「社会の公器」と呼ぶ所以である。ところが新聞の公共意識ほど、食わせ物であるものはない。慰安婦問題は、先の大戦を侵略戦争として、その責任をすべて軍部の横暴と位置づける主調音から出てきた誤報である。いわゆる戦後の進歩的なイデオロギーへの信頼が背景となっているのだ。同じようなことは、差別や少年非行、あるいは災害の報道でもよくでくわす。問題の解決を所管の公官庁の落ち度として取り扱い、そして、関連の些細な事象を拾い集める。いわゆる権力の監視、反権力という姿勢こそジャーナリズムなのだという、大時代的な思い込みが誤報を誘発させるのである。
しかしこうした報道に真実はない。子供、女性、被害者・弱者などにおもねる倫理観ほど、疑わしいものはないのである。記者たちに事実関係に迫ろうとする切迫感はなく、社の意向に添うという無責任極まる先入観の空洞がひろがっているだけなのである。
報道の基本は5W1Hとされているが、この際、この基本の検討を含め、記事の作り方の根本が問われるべきなのだ。そして誤報は直ちに訂正すること。パソコン、携帯などソーシャルメディアが発達しても、拡散力の強いメディアは新聞テレビ以外にない。その影響力を考えれば尚更でなのである。【彬】
絵はヒマラヤ杉の松ぼっくり。