ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

節分、あるいは分けるということ

2015年02月10日 | 日記

絵=入澤光世・節分の鬼

 2月3日、節分はおわりましたが、福は内、鬼は外の豆まき以外の、節分ということの由来を知りたくなった。

 ネット上で調べてみると、節分というのは、文字通り時期を「分けること」のようだ。つまり季節の境目。陰暦のことだから、現在の感覚にはそぐわないが、節分の翌日が立春であるから、ここから春がくるよ、という境が節分ということらしい。だから当然、夏、秋、冬にも節分がある。

 暦は、世界のどこの地域でも農業歴なのだが、日本のようなモンスーン/稲作地帯では、稲作を中心とした種まきの季節が特に節分の区切りとして、後世に引き継がれているのだろう。太陽暦だと現在の季節感にはどうしても一致しない。

「分」という漢字からいろいろ類語が思い浮かべられる。分配、分数、幾分、区分、一分、二分、取分、案分、多分、などなど。季節だけでなく、私たちの生活感覚が「分ける」ということから成り立っていることが分かる。科学の基本も分類から始まるのである。また身体の内部については、気分という言い方もある。つまり心理学である。

 近年、衣食住すべて、季節感がないなどという言説があるが、私などエアコンなど完備すればするほど季節感に敏感になり、天気予報が気になる。例えば寒さ暑さは、コンクリート家屋のエアコンンが完備した住宅に住んでいる方が、外気に触れた時に余計感ずるものだ。分けるという考え方の基盤が、文明と共に大きく変わってきているのだろうか。福岡伸一博士は「世界は分けてもわからない」(講談社現代新書)という書物を上梓しているくらいだ。【彬】

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする