絵=裸木のスズカケノキ
ソーシャルネットワークの機能が発達して、誰もが自由に発言、発信できるようになった。このブログもその一つである。そうしたことから、自分自身を物書きだとか、ジャーナリストだと思い込む人が出てくる。あるいは僭称することになる。
そもそも芸術家がそうだが、ジャーナリストというのも同じように、元はパトロンがいて、その指示によって、情報を集めるというのが始まりである。例えば、オランダの貴族がフィレンツェの商品動向を調べて報告しろ、と言ったように。つまり、伝えるということは、パトロンの要請に応えるということなのである。そのパトロンの数が多くなり、主客が転倒したとき、ジャーナリズムが成立するのである。その構造を敷衍すれば、今日、ジャーナリストは読者あるいは視聴者の要請に応えるという仕組みということになる。
ところが、読者や視聴者というのは不特定であるため、国民と読み替えることができることから、ジャーナリストの報道は国民の知る権利を代行するものだというような幻想が広がることになる。そうした妄想に、自称ジャーナリストという人たちが組み合った時、原発事故の風評やらイスラムへの渡航など鼻息の荒い問題が発生するのだ。
マスメディアが表出する言辞や映像は、決して国民の知る権利を代行したものではないし、語られている内容が必ずしも事実ではないことを知っておきたいものだ。
知らせるということがどういうことか、歴史を遡って確認しておきたいのである。知る事より、正義感とかやらのイデオロギーに包まれて、知らせることの方に前のめりになったジャーナリズムには、よくよく注意したいものである。 【彬】