azami=入澤光世
終戦記念日のある8月は夏の休暇の時期であり、国のあり方を見直す勉強する期間になっているように思う。普段、気にも留めない憲法を読むのにはちょうど良い。
重要なのは前文だ。ここには国民主権=代表民主制と、平和的生存権が明記されている。この前文で私が問題提起したいことが2点ある。
❶国民主権の由来について
イギリスやフランスの場合は、長きにわたる王権との闘いの結果、王権神授の思想から、革命によって、国民主権に変わった、その由来ははっきりしている。ところで日本の場合は、明治憲法の天皇主権からの今日の昭和憲法への移行は前文で次のように説明されている。
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と。
敗戦によって簡単に主権の移行ができるものなのだろうか。誰がどのような根拠によって、どのように移行したのか。もっと明確にすべきである。憲法草案にはいろいろが経緯があることは承知しているが、肝心要のことである主権の移行については、前文においてもっと明確にすべきである。占領軍によってといえば簡単だろうが、本当にそうなのか。
問題は制定にあたって国民の意思をどのように反映させたかだろう。私は国民主権の考えに異存があるわけではないが、何かというと民主主義の危機だとか、議会制をないがしろにしているなどという、言辞がまかり通るのは、この国民主権の根拠のあり方が理由していると思っている。日本における国民主権の根拠をもっと明確に示す必要がある。そのためには、前文だけでも国民投票にかけ、国民の意思決定の過程を経るべきだと思う。国民の意思としてこの憲法を発布するということがはっきりすれば、様々な疑念はすっ飛ぶというものだ。
そして、たとえばこの箇所は「われら日本国民は、無残な敗戦の結果、明治憲法における政治上の権威や法令及び詔勅が壊滅したことを確認し、新たに国民の意思が憲法及び一切の法令の礎であることを宣言する」にしたい。
また国民主権を「これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。」というのはおかしい。国民主権は、たかだかこ数百年間の政治的な思想である。人類普遍と確定することはできない。
❷平和的生存権について
憲法の平和宣言は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した」としている。つまり日本をとりまく諸国・諸国民への依存を表明しているわけである。平和への希求は相手によるものではなく、日本の意思であることを明記すれば足りる。いつまでも相手の意向を汲んでいたのでは、汲々とするばかりである。「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会」といった状況認識は、いかにも能天気すぎる。世界は支配と服従、迫害と抵抗の坩堝であるのだ。だから政治が発生する。
ところで、憲法を最上位の権威で、不可侵の大典だと思いがちだが、そんなことはない。英語ではconstitutionであり、いわば仕組みくらいの意味である。つまり、日本のあり方、組織の形を決めたものが憲法なのである。もちろん法令ではないから違反したからといって、罰則はない。付帯する法律で罰則が規定されているわけである。その分、条文の解釈が多様となるわけだ。だからといって文学のように多義的な表現方法はとらない。つまり指針なのである。
現在、安保法案に絡めて、憲法を含めた各種の論議がなされているが、私は上記のようのように日本における国民主権のよってきたるところを明確にすれば、それらの論議は片がつくと思っている。【彬】