山茱萸(サンシュユ)が真っ赤な実をつけています。
初夢その2は、未来に対する夢想ではなく、過去への照射である。
昨年来より百瀬高子さんの「御柱祭ー火と鉄の神と」(彩流社)を読んで、想像力を刺激されている。この本の主旨は日本の縄文期に諏訪湖を中心に、葦や葦の根に付着する高子小僧(カツ鉄鋼)を使った鉄文明が隆盛を誇ったという説である。鉄文明が日本に入ってきたのは青銅器以降で古墳時代後というのが定説だ。高瀬さんの考えは、こうした既存の学説に反旗を翻すもので、いまから4,000~5,000年前に日本には独自の鉄文明があったと、実証しているのである。
鉄の使用は火と並んで人間にとってもっとも重要な革命だが、ふつう、今は滅んだヒッタイト人と結びつけて教えられており、我々の常識では受け入れられるものではないが、鉄文明が縄文期に栄えたというと、様々な夢想が広がってくる。
例えば山岳文化。柳田國男的には山人の世界である。山人は焼畑農業と木々の加工で生計をたて、必要に応じ加工した鍋釜や木工品をもって麓の農民と交流を重ねっていったとされる。そうした生活が可能なのは、粗悪であっても鉄のような道具なしには、不可能のように思う。そのうえ、弥生=稲を栽培した定着農民と違って、移動するというのが、基本である。縄文=鉄は、各地のカツ鉄鋼を求めて、諏訪から松本、信濃川沿い、さらには東北各地へと、沢沿いに移動していったというのだ。
私たちはいまだ、農村的な共同意識から抜け出せないでいる。農村を賛美し、大切にすることが、不文律の大典のように語れれているわけだ。農業をめぐるTTP交渉での異論も、ここにある。これは、農村を弥生的な定着文化として基礎づけていることに原因がある。日本が未来に向けて一歩踏み出すためには、この共同幻想から抜け出ることが避けてとおれぬ課題と思う。
百瀬さんの説は学問的には難点があろうが、この考え方を敷衍していくと、今日の様々なアポリアが解けてくるようにも思えるのである。【彬】