我が家のヒヤシンス
電車通勤の労から離れてもう何年にも経ち、その風俗に触れることが少なくなったが、今、時々利用する車内が、以前とかなり違っていてびっくりすることがある。
最近の経験だが、通勤時間から少しずれた午後7時過ぎ、立っている人が数人で、地下鉄の座席はほぼ埋まった状態。駅ごとに2〜3の座席が入れ替わる、そんな状態の中、全員がスマホに見入っている。若い人も、中年の人も、男女にかかわりなくである。スマホを持たない私にはこの光景に、ヘエーと思ってしまった。
かつてマンガが大流行した時、マンガを読む人が多かったが、全員ではなかった。また駅売りの夕刊紙なども多くの購読者がいたが、それらはほぼ男性で、女性はせいぜい文庫本や女性誌というのが普通だった。それが今や年齢や性に関係なくスマホなのである。
電車内は不思議な空間である。10〜20分程度、見知らぬ人と密集状態で過ごさねばならない。何かしようと思ってもままならない狭い空間である。地下鉄だと窓の外の風景をみようにも何も見えない。だから物思いにふけるか印刷物に目を通している以外ない。座席が確保できる長距離通勤なら読書というのもある。解剖学者の養老孟司は、研究の傍、探偵小説を読む楽しみが通勤電車だったと言っている。しかしほとんどの場合は、狭い空間の中でジッとしているのが普通だった。
スマホはこの息苦しい空間を解放したと言えるのではないか。
何をしているか、とチラチラのぞいて見ると、ゲームをしたり、ツイッターをしたり、調べ物をしたりと多様である。新聞や雑誌の低迷が顕著なのは、この風景を見れば実感だ。昔、「駅馬車」という映画があった。この時、馬車のワゴンの中にいる乗客は、過酷な運命を共有せざるを得ない宿命を背負った人たちで、目と目、歯と歯が突き合わせざるをえない逃げ場のない空間の中にいた。乗り物というのは、象徴的には駅馬車のようなものだったのである。
今、安全という電車の中で、一触即発の空間に居ながらも、それぞれの人が全く別々にそれぞれの世界と繋がっている。なんと幸いなことか。これを裏支えしている電波という文明、この恩恵はどこまで進化していくのだろうか。【彬】