ムクゲ
東京で再び感染者が広がっている。1日の感染者が250〜300人ほど。
この数値が多いのか、少ないのか、また第二波とか三波とか、今後どのように変わるのか、いろいろ議論されている。野次馬的な好奇心からだけでなく、感染症対策の専門家、医学者、理系の学者などが入り混じっての言説である。私のような、楽観主義者からすると、なんとまあ賑やかなことか、これもひとえにマスコミ時代の象徴かと思わせる。悪いことに、悲観的な言説は政治的な言辞を巻き込みやすく、世情に心配のタネを撒き散らすことになっている。これを「コロナ脳」と呼んでいる人もいる。
私が楽観的でいられるのは、今までの体験から、感染症というのが、それほど懸念する病ではなかかったからである。例えば皮膚病、結核、赤痢、小児麻痺、狂犬病、性病など。昔はこうした病気が蔓延していた。そして重病になった人、死んだ人、身近でも見聞してきたからである。
今回のコロナがそうしたかつての感染病(伝染病)とは違って、感染力も毒性も格段に強力だ、という言説があるが、私には、そもそもそれが疑わしいのである。確かにイタリアなどヨーロッパでの感染は凄かった。アメリカも同様である。でも日本では、そんなにも広がらなかった。そうした事実をみているからである。
現代は、人の行き来が格段に増え、情報も即座に全世界に流れる。だから感染症が拡散する度合いは高かろう。そこでパンデミックなどの呼称が生まれ、WHOの出番となる。情報や交流の高度な伝播が、この病気の異質さを後押ししているように思うのである。本当は武漢から発した新型の風邪くらいなものなのかもしれないのだ。
そうした中、私は考える。
今回のコロナの果たした役割はなんなのか、ということである。
感染症に対する防御体制が不備だったという人がいる。もっと強力に整備し、都市の封鎖も辞さない政治力が必要だ、と曰う人もいる。これこそ、コロナ脳だろう。私が思うに、問題は今日の都市の過密化の弱点を顕にしたことにあると思う。人口が稠密化すれば、感染症ばかりではない、様々な弊害が起こる。このことが問題提起されたのだと思う。
発生源である武漢は、1000万人を超える超過密都市である。しかも急速に発展した都市である。このことに思いを馳せたい。
別言するなら、今回のコロナを通じて東京の人口を拡散する方向を模索したい。これが今後の産業論、都市論の元になると思うからである。現代の都市は、生産から消費、政治から文化、学問からスポーツまで、全てが一極化している。分散化することが重要だと、思いながらも自分自身は巨大都市の利便性を満喫している。どうしたものやら。【彬】