ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

SNSということ

2020年10月17日 | 日記

 ノボタンが咲き始めました。

 新聞やテレビを見るが、最近はチラ見する程度で、若い頃と比べるとマスメディアとの接触が相当に少なくなっている。頭が硬くなる老人特有の性向だろうか。
 でもその分、SNSとの接触が多くなっている。主なものはtwitterである。
 SNSの普及により、私たちのコミュニケーション環境は大きく変わった。その変化の中で、新聞とかテレビとか、いわゆるジャーナリズム=マスメディアの役割も違ってきた。誤報が多い、煽り記事のようだ、広告ばかり、まるでイエロージャーナリズムではないのか、といった批判をよく聞くようになった。新聞の部数減、テレビの視聴率低下が背景にあるのかもしれない。
 ジャーナリズムについては、その発生まで遡ると、少しややこしくなるが、近現代のメディアを定義するときは新聞でもテレビでもラジオでも、その役割を「公共性」という概念で括っており、記者による取材の権利なども「知る権利」とか「公共性」を前提として容認されてきた。新聞やテレビがある論調を展開するときにも、その公共性を隠れ蓑に、読み手や受け手に説諭的・啓蒙的になり得たのだった。
 しかし、SNSの登場で、誰でもが送り手になることができるようになったことで、マスメディアの送り手たちが独占していた公共性というものが全く反故になったのが、現在だと言える。
 私たちは、この事実をしっかりと受け止めたい。取材は拒否できるし、取材された記事にしたところメディア上に表現されるのは、だいぶ偏っている場合が多いのである。
 ところが新聞やテレビの送り手たちは、この事実を全く認識していないかのようで、そのため、解説記事など、私には嫌悪の対象になるのである。例えば現在問題の学術会議についてのあれこれ。Twitterに寄せられる色々な投稿者のツィートには、この組織の問題点がいろいろ伝えられている。単に菅首相の強権云々の問題ではないことが、各方面から知らせてくれているのである。
 SNSは今、草創期にあるせいか、言葉や映像が荒っぽく、よく訴訟沙汰になっている。そのためSNSを嫌う人もいるようだが、たとえば安倍前首相を「ぶった切ってやる」などと常識では考えられない言辞をほざく法学者がいるのも事実だ。
 しかし、発信者が多数いて、自由に表現できることは、民主主義の根幹である。特定の問題について、徒党を組んで偉ぶった声明を発するなど、今日のコミュニケーション環境には全くそぐわない。
 こうした考えというのは、保守化した私の老人性の固まった思考のせいではあるまい。【彬】

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