シイノミ
先年だったか、書いたことがあるのだが、我が家ではこの時期になるとシイノミを食べる。近くの公園や閑静な通りに植わっているスダジイの真っ黒な実が落ちているのを拾って食べるのである。油を引いたフライパンで、炒めるとホックラとした美味しさに仕上がる。といってもいわゆる美味というのではなく、自然の賜りものを、ありがたく食べる喜びの美味しさというような感じである。シイノミに限らず、人が見向きもしないような露端の柿、ビワ、桑の実、栗など、食べられそうなものを頂戴しているのである。
今年もシイノミを二度食べた。二度目の時だが、拾ってきてから食べる機会を逸し、2週間ほど放置しておいたところ、殻が弾け、食べると、硬く粉っぽく感じた。中の水分が飛んだのだろう。山栗なども放置しておくと、同じようなる。
そこで思ったのだが、どんぐりを常食にしていた縄文人は、これをどのように保存していたのだろうか、と。適度の湿気を与えておかないとカラカラに乾燥してしまうから、土器保管には不向きではないのだろうか。ひょっとして乾燥させ、砕いて粉にして食べたのだろうか。
食べ物については、保存というのが文明の基本で、これが料理や調理の方法に繋がっていく。例えば、塩漬け、発酵、乾燥、薫製。それに毒抜きというのが大切な保存方法である。
日本では毒抜きのために水に晒すという方法がある。有名なのは栃の実である。晒すためには、清涼な水が絶え間なく流れていることが必要である。流水に浸してアクを抜くのである。この晒すというのは日本独特の文化であって、衣類や木材などの建築材にも応用されている。
晒す(さらす)というのは、更であり、白いことであり、そこから更科日記などの名にもつながっていく。
縄文人はこの晒すという知恵を獲得、応用していたのではないだろうか。どんぐりは晒して食べたのではないのか、というのが私の推測である。というのも、各地の縄文遺跡を見学するとそこには決まって清水が湧いている。その痕跡も残っている。
人間が栽培した作物ではなく、自然のものを食べるというのは、私たちの遠い祖先につながる行為であり、太古への誘いでもある。【彬】