ぼくらの日記絵・絵心伝心 

日々の出来事や心境を絵日記風に伝えるジャーナリズム。下手な絵を媒介に、落ち着いて、考え、語ることが目的です。

安倍国葬問題について

2022年07月23日 | 日記

             ハイビスカス

 安倍晋三元首相が凶弾に斃れて、国葬にするという内閣の方針に異議を唱える議論が目につく。また、これに加え、訴訟を起こしているグループがいる。安倍元首相のように数々の問題を起こした人を多額の費用をかけて国葬にするというのは、思想の自由に反するし、政教分離の原則に反するというのが主たる理由である。
 私は国葬に賛成なのだが、これらの異議申し立ては、国家と宗教との関係について、大きなテーマを含んでいるので、識者と言われている人、あるいは政治家の諸氏には、これを蔑ろにせず、本格的に論じ合うべきだと思う。
 問題は安倍晋三という毀誉褒貶のある政治家云々についての諸事情に関しては、触れないことが大原則である。安倍だからダメというのでは、元も子もない。そもそも議論が成り立たない。
 国葬については、西欧でも、政治家が対象になった葬儀が行われている。イギリス然りアメリカ然りである。しかもイギリスの場合は、キリスト教が国教会として位置づけられていて、いわゆる政教分離とはなっていない。ドイツなどでは、キリスト教を名乗る政党から首相が輩出されている。西欧に限らず、イスラムや東南アジア諸国も同様である。ロシアはロシア正教が再興していて、中国では逆に民間の宗教さえ禁止している。国家と宗教の関係は多様だと言っていい。日本では信教の自由が保障され、政教分離が確固として成り立っている。話題の統一教会やオウム教でも、自由な宗教活動は保障されている。政治との関係では、創価学会という宗教団体が政治活動を行うことが問題視され、宗教とは分離した、公明党という団体として公認されている。
 こうしてみると、日本の政教分離は世界の中でも優れて実効性を確立していると言って良い。
 そうした中での今回の国葬問題。これを開催すること何ら問題はない。安倍氏が統一教会に絡んでいるなど、ちっとも問題ではない。私は、法律によって国葬を儀典化すべきではないかと考える。葬儀は厳粛な儀式だから、宗教が介在するのは当たり前である。どこの国、どこの地方に行っても、葬儀は宗教性を持つ。だから、これを国家の儀典として行うことで、できるだけ宗教性を薄めるのである。勲章や表彰と同じように、国家国民に多大な寄与をした人を顕彰する儀典とするのである。そして国葬された人は、国立の墓地を作り、そこに埋葬することとする。
 国家と宗教の関わり方は、下手に介在すると、戦前の国家神道の問題になるし、靖国問題にもなりかなない。国家の儀典として明確にすることによって、イデオロギーとか、他国からの因縁も防げる。
 安倍晋三の政治的は功績や失態を問うのなら、その機会はいくらでもある。安倍氏のような大きな政治家の葬儀のあり方云々で問うべき問題ではない。【彬】

 

 

 

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