大久野島の北部には煙道がある。
毒ガス貯蔵庫のあまりの規模に圧倒されてあまり印象に残っていなかったが、写真は撮ってあった。
この島で毒ガスが製造されていた時、毒ガスの不合格品、防護服、ゴミなどを焼却したという。
焼却炉ができるまでは、北部の海岸で燃やされていたが、毒ガスの原料が硫黄性のため燃えにくかったようだ。
まして、高い煙突を設けて煙の通り道を作るのは発見される危険性があったと考えたのだろう。
そのため、北部の海岸にあった焼却場から煙道口まで、煙突管を山の斜面をはわせるように設置したそうだ。
実際には山の上に短い煙突があったというが現在はない。
三つ並ぶ煙道口 → Map
危険防止のため金網が張ってある。落ちたら海岸の方まで運ばれてしまうのだろう。
穴の中から草が生えている。実際にはだいぶ土で埋まっていると考えて良いだろう。
資料によると、海岸の砂の上で焼却をしていたのは1937~1938の1年間。
ゴミ焼却に従事した方の証言には、
「焼却場では、黄色い煙、黒い煙、赤い煙と日によって煙の色が違っていた。」
というのがある。
そのことからも、かなり危険な仕事だったことがわかる。
戦後は毒ガスの後遺症で、早く亡くなった人が多いたそうだ。
そう、ここで造られた毒ガスは大東亜戦争(第二次世界大戦中)に中国に遺棄されたとされている。
訓練や日中戦争の実践で消費されたされる。
そして大部分は使用されないまま終戦を迎えたという。
中国には、日本側推定30万-40万発の日本軍の化学砲弾などが埋設されているとされるハルバ嶺地区がある。
ハルバ嶺(ハルバレイ)地区は赤丸の所。
日本は 2022年を遺棄化学兵器処理の終了の年として事業を進めている。